2018年5月2日水曜日

町奉行あれこれ(32)

「まとめ」の続きです(全然まとまってねえじゃん)。

既に再三述べてはおりますが、元禄11(1698)年9月の「勅額火事」で呉服橋(南)番所たる松前伊豆守屋敷が焼け、翌月に、やはり被災していた鍛冶橋内の吉良上野介・保科兵部少輔(ひょうぶのしょう)両邸跡に移転します。同時に、保科は麻布へ、吉良は呉服橋門内の南側へと移るんですが、火災後の区画整理によるものか、火事の前の南番所が南北に3軒並んだうちの真ん中だったのに対し、新規吉良屋敷は2軒並びの南半分で、明暦3年正月(明暦の大火、「振袖火事」以前)の絵図に示された地割に復した状態。その南北二分の形は以後幕末まで不変のようです。

明暦3(1657)年当時は北半分が南番所でしたが、百年以上後に「北」番所となるのは、同じ呉服橋内でもこの南側。3年後に本所へ引っ込むまで吉良上野が住んでた場所でもあるんですけど、それはまだ先の話(いけねえ、おんなじような台詞を何度も言ってる)。

                  

火事の4年後、元禄15(1702)年秋に町奉行が3交替制となり、新規町奉行の丹羽遠江守の役屋敷が、松前屋敷のある鍛冶橋門内から1つ北の区画(鍛冶橋と呉服橋の中間の区画)の南東角、旗本坂部氏の屋敷跡に定められ、位置関係からそれが中番所と呼ばれることになります。「中町奉行」という役職が新設されたのではなく、増員された3人目の町奉行の屋敷が鍛冶橋(南)番所と常盤橋(北)番所の間だったから「中」と呼ばれ、その中番所の町奉行だから「中町奉行」という次第。いずれも当時は正式の名称ではなく、飽くまで区別のための俗称……だった筈です。

翌年の元禄16年11月に、鍛冶橋(南)番所の松前氏が退職し、林土佐守に交代。次いで1年余り後の翌々年、宝永2(1705)年1月に坪内能登守へと代ります。一方、常盤橋(北)番所の町奉行は、その前年、宝永元年10月に保田越前守から松野壱岐守へと交代しておりますが、この時点ではまだ位置関係に異同はなく、役宅や奉行の名称にも混乱はありません。
 
                  

それが、宝永4(1707)年の、恐らく3月8日の火事により、80年ほど一貫して「北」であった常盤橋番所が焼失して、松野奉行は(4月22日に?)一旦八代洲河岸の「高倉屋敷」に移った後、(たぶん)9月に数寄屋橋門内の堀邸跡へ引っ越します。その結果「北」が「南」に転じ、以後数寄屋橋番所が幕末ま南番所ということになるのですが、問題は残りの2つ。とりあえず場所が変ったのはそれまで「北」であった松野屋敷だけなんですけど、位置による名称は相対的なものなので、自然それまで「南」だった鍛冶橋内の坪内屋敷が「中」、「中」だったその北側の丹羽屋敷が「北」ということにはなってしまうわけです。

まあ、それだけのことであり、実情はさして込み入った話でもないのが、その経緯を確かめようともせず、安直な著述やウェブ記事を受売りする者が跡を絶たないため、何だかわけの知れねえことんなっちまってる、ってことなんでした。わけてもこの『江戸町奉行所事典』は、まあさんざんこき下ろしちゃってますけど、文章による説明も矛盾している上、歴代の奉行名を並べた歴任表や、わざわざ図示している位置も杜撰だったり間違っていたり、しかもその図の中身が、いずれにせよ本文の内容とは真っ向から撞着、っていう二重三重の混乱ぶり。

何より不可解だったのが、ほんとは俗称に過ぎなかったであろう南・中・北の別が、実際的な役屋敷の位置関係ではなく、各町奉行固有の呼称であったかのように書いてあるところ。松野壱岐は最北の常盤橋から最南の数寄屋橋に移転した後も依然「北町奉行」で、真ん中になってしまった鍛冶橋の坪内能登も「南町奉行」のまま。新規町奉行として就任した丹羽遠江は屋敷が一番北となってもやっぱり「中町奉行」であり続けたことになり、南から順に北・南・中という超自然的な状態にあった、とのご高説。そのくせ、図では何の挨拶もなく実際の位置関係のとおりにそれぞれを示しているという、いちいち念の入ったる滅裂さ。
 
またもしつこく再掲
 
おっと、それだけじゃなかった。位置と名称が食い違っていようが、新規の、つまり第三の町奉行として就任した丹羽は、いわば鳥とも蝙蝠とも断じ兼ねる立場。どうしたってハナはとりあえず「中町奉行」扱いでなければ身の置き所とてあるまいに、この事典の「江戸町奉行歴任表」にはなんと(南)と付されており、他の奉行と同様、その( )で示された区分は、在任中ずっとそうであったかのように1つしか書かれておりません。ついでに、松野も坪内も(北)だってんですが、前者はまあハナはそうだったとしても、後者は初め「南」だったのが途中で「中」に変ったのであって、肩書としても居住地としても「北」だったことはついぞなく。

就任時「中」だった丹羽氏は、松野屋敷の移転によって途中から「北」とはなったけれど、その在任中に「南」だったのは鍛冶橋の松前(呉服橋から移転)、およびその後任の林と坪内〔いずれも「歴任表」では(北)扱い〕、あるいは常盤橋から数寄屋橋に引っ越した後の松野〔やっぱり(北)だってやがる〕となるが道理。それだって、松野壱岐が北の常盤橋から南の数寄屋橋へ移った時点で、どうしようもなく鍛冶橋の坪内能登が「中」ってことになると同時に、「初代中町奉行」だった丹羽遠江本人は「北」とはなっても、一度だって「南」と呼ばれる覚えはない筈。何より、位置が入れ替っても名称はそのまま、って言い張ってんのはあんただろう、って感じ。本文中で〈中町奉行所を造り丹羽遠江守を奉行とした〉などと威張っておったではないか、みたいな。
 
                  

この「歴任表」の(南)だの(北)だのって、最初期の天正から慶長にかけてはともかかく、寛永以降の項目にも書いてあったりなかったり(奉行名の脱落もあり、南北の区分があっても明らかに矛盾してたり)する上、この「中町奉行所」時代はホント錯綜を極めており、同時期に「北」が何人もいるかと思うと、「南」は数年間空席だったりするんです。著者自身もさることながら、編集者の怠慢は歴然。古い本なので、もう誰一人この世にゃ残っちゃいないのかも知れませんが。

初めはまさか書いてることがここまで理不尽を極めていようなんて思いもしないから、いったいどういうことなのかって随分悩んじまったじゃござんせんか(立読みのまま1時間余も)。もう20数年前の話です。懐かしいぜ。
 
                  

あ、でもまた、ウィキぺディアその他のように、屋敷替えの経緯には触れぬまま、位置関係の変化に伴う各奉行の名称変更だけを示している例もあり、今度は逆に、この宝永4(1707)年のある時期に突然それぞれの屋敷と役職名を交換したのかと思っちゃいそう。ウィキの一覧だと、松野屋敷が数寄屋橋に落ち着いたらしい9月ではなく、4月22日を境にして一斉に入れ替ったかのようになってます(典拠はわからず)。いずれにしろ、移転の状況を説かぬのでは、どうしてそうなるのかが一向に解せず、実際その名義のみの変更を「転任」と称するサイトもあることは以前述べたとおり。とりあえず「中町奉行」は都合2人で、初代が丹羽、2代目が坪内、とする記述はかなり多いようで。

南だの北だのってのが、そもそも単なる屋敷の位置を指すものであり、別にそれぞれの主である各町奉行の役職の違いではない、ってことがわかってないからそうなるんじゃないかしらと。「南町奉行」だの「北町奉行」だの、あるいは「中町奉行」だのってっていう、対立的な複数の奉行職があって、それぞれの役宅を「南町奉行所」だの「北町奉行所」だのと言い分けていたのではなく、南も北も中も飽くまで場所の区別に過ぎず、公式にはいずれの奉行も単に「町(御)奉行」だった筈……ってことも複数回述べました。諄くてすみません。
 
                  

気を取り直しまして……。他の2人は従前どおりの場所で執務を続け、また3者とも何ら職務に変更はなかったにもかかわらず、常盤橋の松野壱岐が数寄屋橋門内(あるいはその前の高倉屋敷)へ移ったことにより、各役屋敷および各人の(非公式な)名称は一朝にして入れ替った(?)、ってことになるのですが、その状態で10年ほどが経過した正徳4(1714)年初頭、松野の転居によって「中」から「北」になっていた新規町奉行、丹羽遠江守が退職し、中山出雲守が後任となります。

その他は場所にも人にも変更はなかったところ、八代吉宗の将軍就任翌年、享保2(1717)年の正月下旬に、下拙の地元に近い小石川を火元とする火事によって、その中山屋敷、すなわち元中番所であった北番所が焼け、今度はそれが常盤橋に移転することになります。「南」から「中」に変じていた鍛冶橋番所=坪内屋敷も類焼したようではありますが、移転までには及ばず。いずれにせよ、相対的位置関係は変らぬまま、10年ぶりに常盤橋の北番所が復活する形とはなったのでした。この第二次常盤橋番所は、その後90年近く、19世紀初頭まで不動。

因みに、この火事からほどなく、翌月の2月初めには数寄屋橋の松野壱岐守が老齢を理由に辞職し、後任として大岡能登守が着任するのですが、それを機に、同役の坪内能登守との重複を避けて越前守に改称。「大岡越前」はこのときからってことです。それも前に申しました。毎度恐縮。

ともあれ、そうこうするうち、さらに2年後の享保4(1719)年、松野氏と同様、10数年の長きにわたって町奉行を務めていた鍛冶橋番所(《南》→《中》)の坪内氏が辞職し、そのまま後任を置かずにその番所は廃され、10年ぶりにまた2奉行制へと戻ります。綱吉時代の無駄な遺産……と判断したのかどうかは知りませんけど、膨張し続ける江戸の市域や人口とは裏腹に、町奉行も1人減り、その配下の総数も削減(奉行1人当りの人員は増員)。

3交替制にいかほどの意義があったものやら。結局2人制に復したまま百数十年後の明治を迎えますから、特に必要はなかったのではないかと。下拙如きがどうこう言うべきこととも思われませぬが。
 
                  

さて、件の『江戸町奉行所事典』の能書きによれば、実質的には紛う方なき《中》へと転じながら、一貫して「南町奉行所」であり続けたこの鍛冶橋番所〔歴任表では最後の長官である坪内はなぜか(北)〕の廃止により、残りは飽くまで「北町奉行所」たる数寄屋橋番所と、同じく「中町奉行所」たる常盤橋番所ということに。2つだけなら「中」は意味をなさないってんで、このとき漸く実態に合せて数寄屋橋を「南」、常盤橋を「北」てえことに改めた、ってんですが、それいったいいつの時代のどういう人たちが言ってたことなんでしょう。ウェブでは、「大岡忠相は初め北町奉行で2年後に南町奉行に転じた」てな話も見かけますけど、そう書いてる人って、ほんとに「転任」したって信じてんでしょうか(……などという愚痴も既に繰言ではありますが)。

そのような言説は、この事典の「位置が変っても3奉行の各名称はそのままだったのを、2人制復帰を機に実態どおりに改称」っていう記述とは軌を一にするものの(この本のパクリ?)、それなら「中町奉行」の2代目は初代丹羽遠江守の後任、中山出雲守でなくちゃ間尺に合わぬ筈。でも丹羽、坪内が「中」だって言ってるサイトは多いのに、中山を「中」呼ばわりしてるのは見たことありませんぜ。とっくに数寄屋橋に住みついてた松野の後任であった大岡が、鍛冶橋の坪内が辞めて2人だけになる享保4(1719)年までは「北」だったと言い張るなら、どう足掻いたってそうとしかなるめえに。どいつもこいつもどうしてこれほど自家撞着に無頓着(ちょいと駄洒落っぽく)でいられるものやら。

やっぱりおかしいのは俺なのか?
 
                  

実は、場所と呼称の齟齬っていうこの問題に関しては、だいぶ前にやはり真砂図書館の『大武鑑』でちょいと気になるものを見てしまいまして、ひょっとするとほんとに「南が北で中が南で北が中」っていうシュールな状況も実際にあったのかしら、と思われぬでもない記述なんですね。それに触れぬのではいささか公正を失することになるか、って気もして参りましたので、折角まとまりかけた自分の言説を混ぜっ返すようではありますけれど、次回はその話を。

結局終らねえじゃねえか。まとめも何もあったもんじゃねえな。またも想定内ってやつ? でも、次回限りでほんとに終りとなる筈ではありますので、あと1回だけ、何卒ご容赦のほどを賜りたく。すんません。

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