武鑑ものの最大手となり、同業者の板株(いたかぶ:版権)を次々に買収していたという須原屋が、宝永7(1710)年に刊行した『一統武鑑』の内容をまとめた項に、同じ須原屋の『正風武鑑』から載録した「諸御役前錄 畧記」というのが挿入されてまして、その10項目めが「町御奉行 前錄」というやつ。「關東御打入之時」、すなわち天正18(1590)年の家康江戸入府から、宝永当時までの歴代町奉行名が記されております(「略記」は『大武鑑』編者の橋本博が付したものかも知れませんが、「前録」は原典どおりではないかと)。
「神田與兵衛」「岸助兵衛」以下、冒頭に名前が並んだ数名(一部誤記?)はまだ江戸の町奉行ではなく、関東を管轄する複数の奉行、または代官と呼ばれた人たちの筈ですが、その次の代、関ヶ原の翌年、慶長6(1601)年に就任したという「靑山常陸」「内藤修理」の名前の後には〈當時以後南北御两人也〉とあり、つまり青山常陸介忠成と内藤修理亮清成のときに南北2人制となった、と見られる記述。まだ固定の役宅はなく、各自私邸で執務していた筈で、「町奉行」という役職名がそのとき既に用いられていたかどうかも、ほんとはわかんないんですけどね。
この記述が実情を伝えているかどうかは不明ながら、「南北」の別は呉服橋と常盤橋に固定の番所が据えられてから、ということでもなく、あるいは、各自の私邸とは言っても、一般にはその時々の位置関係によって初めからそのように呼び分けられていた、ってことでしょうかね。青山の屋敷は北の丸、内藤は大手町で、随分離れてはおりますが、南北の区別は可能。と言うよりよほど明白。城門の警備隊長が本職だったようだから、離れているのも理に適ってはおります。
さてそのあと、つまり〈南北御两人〉となって以降については、代々のその「両人」が系統別に書き分けられてるんですけど、おもしろいのは、宛も「実際の位置と名称は別だった」とする『江戸町奉行所事典』の言い分を裏付けるが如き表示になっているところ。
〈鍛冶橋内 南方〉と〈數寄屋橋内 北方〉とに分けてそれぞれの歴任者を並べてるんですが、いきなり南と北が逆転してるじゃござんせんか。「南方」(鍛冶橋内)の現役は〈寶永ニ(年)坪内能登守定鑑〉、「北方」(数寄屋橋内)は〈寶永元(年)松野壹岐守助義〉になってんです(「年」を省くのは、屋敷を△で表すのと同様、膨大な内容を効率よく記載するための、『大武鑑』編者、橋本氏による工夫)。まあ、宝永7(1710)年当時の鍛冶橋内はもともと呉服橋の《南》が越して来た所であり、数寄屋橋内は常盤橋にあった《北》の移転先なので、「南方」「北方」がそれぞれの「系統」を表すものとすれば、そりゃ実際の位置関係を裏切ることにはなりましょうけれど。
一方、数年前に設けられた第三の町奉行は、この2系統とは別枠の〈呉服橋内 新規〉との区分で、記載されているのは当然まだ1人だけ、「丹羽遠江守長守」。いずれにしろ「中方」とは言っちゃおりません。つまりこの「〇方」ってのは、やっぱり個々の町奉行の名称ではなく、2つの「系統」を示すための便宜上の言い方、ということなんじゃないかと(編者による臨時の表記法?)。他に用例は見られぬし(もちろんあたしが知らないだけ)、何より武鑑ってのは民間の出版物であって、必ずしも公式の用語、表記を伝えるものではない、ってことで。
それについては、用語や表記どころか、内容全般についても、到底全面的には信頼し兼ねるものであることは、当時の識者も指摘するところでありまして、たとえば、元平戸藩主、松浦(まつら)静山(隠居後の号)が、還暦を過ぎてから起稿し、八十過ぎで没するまで書き続けたという大部の随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』にも、
〈書林の刻行する武鑑と云書は、諸家大凡の荒増を市井に記したる者ゆゑに、誤謬も欠漏もある筈なり〉
と書いてあるそうです。「大凡」は「おおよそ」、「荒増」は「あらまし」でしょうね。
しかしまあ、公式だろうと非公式だろうと、「南北」の呼び分けが寛永(1624~44年)以前から行われていたのだとすれば、やはり呉服橋と常盤橋の固定式になる以前は、なんせ各人の自宅の場所に左右されるわけだから、どっちがどっちだかわかんないことにもなってしまいましょう。
どういうことかと申しますと、『大武鑑』のこの記事では、「南方」(宝永時点の鍛冶橋内)の初代は「米津勘兵衛」(ほんとは「米木津」だったらしいけど)、「北方」(同じく数寄屋橋内)は「土屋權右衛門」、次いで「島田彈正」……となってるんですが、これ、ウィキぺディアの「町奉行の一覧」では南北が正反対なんですよね(『江戸町奉行所事典』の「江戸町奉行歴任表」はまた違うんですが、そっちはどのみち全体にかなり杜撰ですし)。いずれもまだ固定の「南北」番所となる前の面々で、この人たちの後任が南方・加々爪民部、北方・堀式部少輔。その2人の名に続けてそれぞれ〈此以後諸太夫〉、〈以後諸太夫〉との文言が記され、宝永7(1710)年現在までの町奉行名が羅列されているという具合。加々爪・堀以降はウィキその他の記載とも「南北」の区分は一致しています。
そうなる直前、寛永8(1631)年頃の絵図だと、既述ではありますが、常盤橋(大橋)内は牧野内匠という一般の大名、呉服橋内は、当時たまたま唯一の町奉行(という呼称が確立していたかどうかはさておき)だった島田弾正で、この島田屋敷は当人の私邸です。それをその年(あるいは翌年の寛永9年?)、島田の後任、加々爪民部が屋敷ごと受け継ぐとともに、空席だったもう1人の町奉行に任ぜられた堀式部が元牧野屋敷で執務を始め、以後それぞれの屋敷が歴代町奉行の役宅として固定、という塩梅なんですよね。
寛永期(1624~44年)の絵図より(出版年は不明ですが) |
じゃあその前の位置関係はどうだったかと言うと、慶長・元和の頃の閲覧可能な絵図が乏しくて、よくわからんのです。とりあえず、加々爪と堀の2人が呉服橋番所と常盤橋番所の最初の町奉行となる直前、寛永8年の状態では、『大武鑑』で「南方」の初代として挙げられた米(木)津勘兵衛の子、米津内蔵介(蔵助?)の屋敷は呉服橋内の島田邸から2軒ほど西方、道三堀南河岸にあり、土屋権右(左?)衛門邸は、それよりだいぶ南西方向の八代洲河岸、とはなっております。
同図より |
7年前の寛永元年に卒した米津が後の息子と同じ場所に住んでいたものとし、20年前に没していた土屋(『寛政譜』だと息子は権右衛門でも権左衛門でもないんですが)の屋敷も生前と変っていないものとすれば、相対的に米津が北、土屋が南ということになり、その土屋死去の翌々年に後任となった島田も、屋敷は米津(その死後7年間は島田のみが町奉行)のすぐ東だから当然北……となる筈。ということは、『大武鑑』にある「南方」「北方」ってのは、これら初期の町奉行の私邸の位置とは無関係で、やはり加々爪と堀を初代とする呉服橋・常盤橋両番所の配置を継承する2つの系譜を示すもの……かと思うと、それでも話は合わないんですよね。あれぇ?
既述の如く、加々爪は前任者の島田から呉服橋の屋敷を受け継いだのだから、以後の相対的位置関係を基準にすれば「南方」とならざるを得ぬし、常盤橋の牧野屋敷の跡を番所として着任した堀は「北方」でなければ間尺に合いません。それが、『大武鑑』所載の「前録」では、土屋(八代洲河岸)が「北方」の初代で、島田(呉服橋)が2代目。ところが、加々爪は屋敷ごとその島田の後継者なのに、この人以降は実際の配置どおり(数寄屋橋移転まで)「南方」。当然、もう一方の常盤橋の系統も最初は南北が逆転していて、初代「南方」は米津(呉服橋内、島田・加々爪の西)なんですが、その死後かなり経ってから後を引き継いだ堀(常盤橋)は「北方」で、以後の面々もそのまま(こちらも鍛冶橋移転までは実際の位置どおり)。やっぱり何か間違えてんじゃないかしらと。
なお、上述した2つの「系統」は、通説による各人の就任・離任の時期(初期の事例については日付が不詳のものもあり)による区分です。その在任期間についても▽我が『江戸町奉行所事典』はなかなかの錯綜ぶりを発揮しておりますものの、各種ウェブサイトの記事、および図書館で覗いた古い(しかし詳細な)研究書に依拠する限り、『大武鑑』のこの「前録」こそ混乱しているものとは推量されるという次第。
松浦静山が指摘したとおり、武鑑の記事は不用意に信ずべきものに非ず、ってところでしょうかね。『大武鑑』自体はかなりの簡略表記が施されてはいるものの、この「南方」「北方」はやはり『正風武鑑』の原記どおりではありましょう。どのみち実情はもう誰にも確かめられないにしろ、この点に関してはウィキの「一覧」のほうが一応の整合性はあります。
ダメなのはやはり「主役」である『江戸町奉行所事典』のほう。初期町奉行の記載については、一部この「南方」「北方」と(南)(北)が一致して(つまり同じ矛盾に陥って)たりもするんですが、それより脱落や誤記が多くて。
さて、以前にも申しましたが、町奉行に関する近代以降の通説は、幕府の公的な『享保撰要類集』や、正保から宝暦まで(1644年~1764年)の町触をまとめて安永7(1778)年に成立したという民間の『正宝事録』などに基づくもののようで、多くの著述やサイトの記事もそれらを根拠とする例が多いものと思われます。町奉行所が一般に「御番所」と呼ばれていたという情報も、典拠は『正宝事録』とのこと。しかし、初期段階の実態についてはその当時の公式記録もなく、新任町奉行だった大岡越前守が八代吉宗の命で編纂者となり、その死後に改訂が加えられて完成したという『享保撰要類集』も、最初期の天正末から寛永中期に関してはかなり曖昧と言わざるを得ないのが実情です。
町奉行についての「南方」「北方」という文言は、件の『大武鑑』に載せられた「正風武鑑」の「前録」以外には見かけられず(図書館では索引を覗いただけの本もありますけど)、既述のとおりその区分にも非合理なところがありますれば、結局これは、移転による実際の位置とは無関係に、もともとの「南方」、すなわち呉服橋から鍛冶橋へ移った町奉行の系統と、当初は「北方」であった常盤橋から数寄屋橋へ移転した系統とを区別するための便宜的用語に過ぎなかったのではないか、とは思量致す次第。未だ『享保撰要類集』の編纂もなされない宝永7(1710)年の民間出版物ではありますし、最初期の状況についてはやっぱりちゃんとわかってなかっただけなんじゃないか、とも。
『江戸町人の研究 第四巻』に引用された『正宝事録』の一節には
〈常盤橋御門内ゟ宝永四年数寄屋橋御門内江引ケ候 当時之南御番所〉
とありまして、宝永4(1707)年に常盤橋から数寄屋橋に移転した「御勤役」、該当者は一旦高倉屋敷に仮寓していた松野壱岐守なんですが、その「御番所」が「当時之南御番所」と記されているという次第。この「当時」は過去ではなく「当今」、つまり宝永4年ではなく、編纂時の宝暦5(1755)年「現在」って意味です。数寄屋橋移転後のやつが「今の」南番所だって言ってるわけです。
同様に、
〈呉服橋御門と鍛冶橋御門之間より常盤橋御門内江引ケ候 当時之北御番所〉
というのが、享保4(1719)年に焼け出されて、元常盤橋番所があった場所に引っ越した中山出雲守以降の北番所のことになるんですが、実は「候」と「当時」の間のスペースは、原文では「改行+(かなりの)字下げ」です(もちろん縦組みで、恐らく原典の表記に倣った形ではありましょう)。くっついていれば「候」は連体形に間違いないと思われますが、ちょっと離れ過ぎているので、たぶんこれは終止形。でも判然とはしないので、和文スペース1角を挿入という姑息な手を使ったてえ次第。古文書に通じた人ならこんなんで悩むこともないんでしょうけど。
ともあれ、以上の2例は宝暦時点まで存続していた2つの番所のことで、だから「当時之」=「現在の」とは相成る、ってことなんでした。2番目の「北御番所」はこの半世紀後に再び火災で呉服橋へ移るのですが、それはまだ先の話(また言ってしまった)。
しかるところ、もう1つの、いわゆる「中町奉行所」というやつについては、なかなか示唆に富むと言えなくもない書き方がなされてまして、それでますますよくわか(ったような気にな)るという寸法。今日初代中町奉行と呼ばれる丹羽遠江守が1人だけ別掲で、「中」の扱いにはなっていないのが、何となく愉快なほど。
まずは、
〈呉服橋御門内より元禄十一年鍛冶橋御門内江引享保四年御差止ニ成候 中之御番所〉
という文言があるんですけど、この記事全体は移転の推移を継時的に示しているため、記載の順番としては前掲2例の間になっております。つまりこれは、元禄11(1698)年の「勅額火事」で鍛冶橋内の吉良・保科邸跡に移転後、享保4(1719)年に「御差止」、つまり廃止となった、ハナは南番所だったやつのこと。その間「御勤役」に該当するのは松前伊豆守、林土佐守、坪内能登守の3人で、最後の坪内の退職とともに3交替制が10数年ぶりに2人制に戻され、「南」から「中」へと変じていたこの鍛冶橋番所も用済みに、という筋書きです。
『正宝事録』のこの部分は、その「御差止」になった時点での最終的な位置関係からこれを「中之御番所」と言っているわけですが、宝暦当時にはとっくに消えちゃってますので、例の「当時之」もこれには冠されず、って次第。
この部分の次に、先に示したうちの2例目、呉服橋と鍛冶橋の間から常盤橋に引っ越した「当時之北御番所」の記載があり、その後に漸く
〈丹羽遠江守 元禄十五年午年閏八月十五日長崎奉行ゟ新規御附(後略)〉
と、「初代中町奉行」についての記載があるという具合なんでけど、「新規」とは言っていても、「中」の字はまったく示されてはおりません。「後略」ってのがちょいと気にはなりますが、長崎奉行から町奉行とは、とにかくもエリート旗本の典型のような御仁(長崎「御」奉行じゃないんですね)。
という次第で、結局3番所時代当時にどう言っていたかはわからぬながら、少なくとも数十年後の宝暦時分の言い方では、『正風武鑑』における「南方」「北方」とは裏腹に、廃止前の鍛冶橋番所は「中之御番所」であったということはわかる、ってところです。
上記『正宝事録』からの引用は、『江戸町人の研究 第四巻』所収「町奉行――正徳以前を中心として――」という論文からの孫引きなのですが、執筆者の所理喜夫氏はこの間の経緯を以下のように要約しております(漢数字表記は原記が縦組みのため)。
〈すなわち島田正利屋敷地に発し、寛永八年(一六三一)堀直之によって開設された呉服橋番所は、元禄十一年鍛冶橋番所へ移って「中之御番所」と称され、享保四年(一七一九)廃止、同じく寛永八年加々爪忠澄によって開設された元常盤橋番所は、宝永四年(一七〇七)数寄屋橋へ移転して「南御番所」と称され、以上の本来の両番所の他に設置された新しい番所が、「北番所」の系統を受けついだことになる。〉
やっぱりそう整理するのが最も合理的なのではないかとは思料致します次第。
……てな塩梅にて、結局はまた放濫かつ杜漏を極める駄長文を書き散らすのみで、何ら「まとめ」になどはなりませんでしたが、まあことほどさように皮相的知識・情報はいかがわしいものとは申せましょう……などと、懲りもせずにちょいと威張りたくなっちゃったりして。
ともかくも、「中町奉行(所)」問題がひとまず解かれた(?)ところで、漸くこの一連の町奉行ネタも終幕です。既に(何度も)言及しておりますが、一応その後の経緯も記しておきますと、数寄屋橋(南)番所は最後まで不動のまま、常盤橋(北)番所は文化3(1806)年、再び火災により呉服橋に移転。その配置のまま幕末に至り、明治2年春の東京絵図では前者が「元南裁判所」、後者が不鮮明ながら恐らく「刑部官」(秋の版では「刑部省」)という次第。
ということで、あまりにも長い間、実にダラダラと書き綴って参りましたが、これにて町奉行についての、と言うより『図説 江戸町奉行所事典』についての拙筆はやっとおしまいということに。重ねて恐縮至極。
この長大を極めた町奉行所ネタ、既に懐旧の情さえ喚起されるところですが、既にたびたび申しておりますように、ほんとは「伝統的東京語の音韻について」とでもいうべきSNSへの駄投稿から派生したものなのでした。「狭母音の無声化」という、江戸・東京弁には必須の発音法を欠いた、小豆島出身の石倉三郎扮する八丁堀同心の台詞回しに対する、あらずもがなの難癖が発端というのが実情。決して忘れたわけでは……。
その元ネタの結末編、とでも申しましょうか、「東京語の音韻と歌メロの関係(「一致」などそもそも可能か?)」てな事柄についての論考も、かなりの放置の後に再開し、このブログにはそちらを先に再録済みです。
……という仕儀にて、その「再開分」についてはどうぞこちらでひとつ。それでは。
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