2018年8月29日水曜日

「イギリス」だの「アイルランド」だのってどこのことよ?(3)

承前……ということでひとつ。

さて、16世紀に西欧中を巻き込んだ宗教改革騒動が、海を隔てたイギリス(ブリテン)にも及び、結果的にはイングランドもスコットランドも一応プロテスタントに属することにはなったのに対し、アイルランドはカトリックにとどまり、つまるところ、新教の大ブリテン島対旧教のアイルランド島という図式とはなるという具合です。そのアイルランドが厄介なのは、北の一角のみがブリテンと同様新教系が支配的だってところ。

上で「一応」と申しましたが、日本では「(英国)聖公会」などとも呼ばれるイングランド国教会、 Church of England がプロテスタントを標榜するのは、ローマ教皇庁の堕落腐敗への抗議者、という原義からすればちょいと詐称のようなもので、宗教改革などとは程遠く、単に王様、ヘンリー八世が離婚したかったからローマと手を切った、というのが実情、ってのも結構知られた話かと。リック・ウェイクマンのソロアルバムに『ヘンリー八世の六人の妻』ってのがあり、なるほどね、と思った高校時代がちょいと懐かしかったりして。

スコットランドでは、当初弾圧を受けた新教が、やはり16世紀後半には一転国教ということになり、最初にそれを持ち込んだジョン・ノックス(John Knox)てえお人は、スコットランド人ながら一時はイングランド国教会の坊主などもやったりしつつ、結構あちこちで厄介な目に遭った後、ジュネーブ在住のカルバンに師事し、それで仕入れたのが長老制なるものを基盤とする ‘Presbyterian’ 「長老派」という宗旨なのでした。それがやがてスコットランドの国教とされるに至る、という顛末。

因みにその長老派って、アメリカのキリスト教でも最大宗派の1つだって話です。なお ‘(the) Church of Scotland’ 「スコットランド国教会」を単に ‘the Kirk’ と言ったりもするんですが、それは主に他宗派の側が用いる呼称らしい。この ‘kirk’ という言葉については先日も言及しとりました。

英国教会、 ‘Church of England’ は ‘C of E’ とか、単に ‘CE’ とも呼ばれ(後者はキューブリックの『時計じかけ』に出てくる主人公の台詞で知りました)、別名を ‘Anglican Church’。名詞の ‘Anglican’ は個々の信徒を指し、宗旨自体を ‘Anglicanism’ とも……って、またしてもだんだんどうでもいい話になってますな。迂闊でした。
 
                  

さて、件のスコットランド王ジェイムズ六世ことイングランドその他の王ジェイムズ一世は、何かと王権を制限したがるスコットランド国教会に比べ、イングランド国教会では国王こそがその親玉とされていることを知り、スコットランド国教会をも王権に都合の好いよう改変しようとしたけど、うまく行かずに他界したんだとか。その「王権神授説」という勝手な思想を継いだ息子のチャールズ(一世)は、やがて革命政権に処刑され、英国は一時的共和制となるわけですが、清廉潔白なるピューリタン革命の英雄、オリバー・クロムウェルがどうしようもねえ独裁者という正体を露呈するに及び、死後はそれに懲りて結局王政に復する、という具合に、英国史の17世紀は何気なく相当な激動時代なのでした。

クロムウェルに対する諸人の恨みは深く、遺体はわざわざ掘り起されて改めて処刑が加えられたとか。でも一番ひでえめに遭ったのがアイルランドの民で、いかなる王朝よりその共和政府、てよりクロムウェルによる弾圧、虐殺がよほど酸鼻を極めるものだった、とはよく聞きます。

因みに、こいつよりゃましかってんで王政復古の運びとはなったものの、やっぱり勘違いした王様は何かと威張りたがり、処刑された前王の息子、チャールズ二世の後を継いで復古後2代目の国王となった弟のジェイムズ二世は、もともと王権に「優しい」カトリック信者。これを引きずり降ろすため、その娘ながらプロテスタントであるメアリを、嫁ぎ先の共和国オランダから、旦那のウィレム総督ともども呼び寄せて王位に据え、立憲君主制てえもんを始めるに至ったのが、流血を伴わざる無血革命だてんで、立派な革命、すなわち ‘Glorious Revolution’ 「名誉革命」 とは称される由……ってなことは、世界史の授業でも習ったけど、何ともややこしくてめんどくさかっただけ。試験が終った途端にきれいさっぱり忘れ去られるカラ知識の典型?

とにかくも、前王たる父親のジェイムズ二世はあっさり戦に負けてカトリック国のフランスに亡命、その娘夫婦はウィリアム三世とメアリ二世とは相成り候、という運び。夫婦には幼くして死去した子しかなく、メアリの妹が次代の国王となったのですが、そのアン女王即位の5年後、1707年(しつこいけど綱吉晩年の宝永4年)に、イングランド王国が名実ともにスコットランド王国を併合、‘Kingdom of Great Britain’ 「大ブリテン王国」の成立とはなったのでした。それまでのスコットランドは王座が空位のまま、名目は「王国」のまま、その後も今日に至るまで、「地方」ではなく「国」ではありますから……ってのが、多くの日本人にはどうもわかってないんですね。俺だって昔はそうだったけど。
 
                  

さて、北アイルランド、アルスターの話です。アイルランドへのプロテスタント入植者の始まりは、件のジェイムズ六世または一世の時分、すなわち最初のイングランドとスコットランドの合同がきっかけとのこと。わけても、アルスターにはスコットランドの長老派信徒が大挙移住し、CE こと英国教会やその他の新教諸派を合せると、アイルランド全土の中では極めて異例ながら、カトリックの割合を上回ることになり、そんで20世紀前半の独立騒ぎのときも、この一角だけが離脱して連合王国の一部にとどまることになった……って話は前回から再三申し述べておりますとおり。で、そのプロテスタント系住民の中でも、長老派、 ‘Presbyterians’ が多数を占めるのですが、それはもともとスコットランド国教会から枝分かれした体の派閥、ってことなのでした。

問題はその後で、連合王国を成す3国の1つとして自治政府を有することにはなったものの、何せプロテステントばかりが幅を利かせるので、どちらかと言えば本来のアイルランド人たるカトリック勢はいちいちおもしろくない。その不満がいよいよ臨界に達し、実力行使に出たのが60年代末。地元警察には手に負えず、連合王国政府が軍隊を送り込み、さらには自治政府に対処能力なし、として直接統治することになるも、事態はいよいよ泥沼化。 あちらでは ‘the Troubles’ と呼ばれる厄介極まる状況とは成り果てた、ってところかと。

どうでも主客を逆転し、なろうことなら「南北統一」、1つのアイルランドの実現を、っていう IRA (the Irish Republican Army ……ってこれ、長らく「アイルランド共和軍」という一種の誤訳が幅を利かせとりましたが、今は「共和軍」とするのが普通になった模様)の「暫定派」、‘the Provisionalists’、別名 ‘Provos’ のテロが地元の新教系に対するにとどまらず、ロンドンその他の英国本土にも及ぶに至ったのは、当時の連合王国政府の失策によりたるは昭然至極……って俺が言うのも何だけど。

因みに、「シン・フェイン党」と訳される ‘Sinn Féin’ についても用いられる「暫定派」という名称、結局それ自体がその後数次の分裂を経て今日に至る IRA においは、独立運動に任じた旧来の ‘the Official IRA (OIRA)’ に対する、69年以降の急進的集団、って感じでしょうか。
 
                  

さて、1972(昭和47)年と言えば、自分などは呑気にディープ・パープルの ‘Made in Japan’ 収録の年、って認識なんですが、実はそのうち1回だけの武道館公演の最中、前年に親父の転勤でまた故郷の青森に越していたにも関わらず、夏休みだってんで、文京区の姉貴のアパートに遊びに来てまして、でも結構近くの武道館でそんな素敵なライブやってたなんて当時はまったく気づかず。……って、それはどうでもよかった。その年の1月末に、アルスターのロンドンデリーで、後に ‘Bloddy Sunday’ 「血の日曜日(事件)」と呼ばれる陰惨な事件がありまして、デモ中の市民に向けて、派兵されていた英陸軍が発砲し、十数名の人死にが出たのでした。

アイルランド系を自任するジョン・レノンもポール・マッカートニーも、すかさずそれに対する抗議の曲を発表し、後者は BBC による放送禁止の栄誉に浴したりしてんですけど、あたしゃどうしてもジョンの曲のほうが好きでした。 ‘The Luck of the Irish’ ってやつなんざ、聴いても意味がわからなかった中学時分には、なんて美しい曲なんだ、などというところに感動していたぐらいで、歌詞の辛辣さには英語がわかるようになるまでまったく気づかず、という体たらく。ポールのほうは「アイルランドはアイルランド人に返せ」っていう直截なる題目で、「英国よ、何をやってるんだ」みたような歌詞が出て参ります。邦題がまた『アイルランドに平和を』てえ人畜無害ぶりで、野暮の骨頂。

レノンのほうにはもう1曲、事件そのものを歌った ‘Sunday Bloody Sunday’ っていう曲もあり、10年ほど後の U2 の同名曲のほうがたぶん有名だし、自分もそっちのほうが曲は好きなんだけど、実は当時 Bono はレノンを崇拝していたんだとか。レノンのほうは、歌い出しが「日曜日だった。血の日曜日」ってな感じで、その語列をそのまま題名にした模様。
 
                  

U2 の面々は誰憚ることないアイルランド人だし、ポールなどはビートルズの中でも最もアイリッシュ度が高い家系の出っぽいのに対し、ことさらアイルランド魂を誇示したがった(?)ジョンって人は、実は孤児だった親父がアイルランド系ってだけで、生れたときから育てられた母方の実家はイングランド系の Stanley 家。船員だった父親が不在がちで、しかも定まった住居がなかったからでしょう。その後は母親の姉に引き取られますが、何気なく4人の中では最も裕福な生育環境だったりして。

両親の離婚後は近親中1人だけアイルランド系の Lennon 姓となるんですけど、それは、育ての親となった伯母の Mimi が、離婚した当人たちの希望もあり養子にしようとはしたものの、結局いずれも奔放なその両親を一緒に役所へ連れて行き書類に署名させることができなかったから、という話です。

でもめでたく養子縁組が成っていたら、その伯母さんの旦那の名字である Smith 姓になってたんですね。その育ての父ともごく仲はよかったってんですが、「ジョン・スミス」なんていうつまんねえ(偽名のような?)名前になんなくてほんとよかった、などと自分では勝手に思ってたりもします。

因みに、当人が生れたのは父親が戦時中の混乱で行方不明中。リバプールはドイツ軍の容赦ない空襲を受けていた最中だったってんですが、実は John という名を選んだのがそのミミ伯母さんだったとのことで。

……てな話もとっくに既述でございました。またも繰り言、恐れ入ります。
 
                  

本題(が何だったかすらわかんなくなりつつあったりして)からは逸れたまま、またぞろ随分と長くなってしまいましたが、「イギリス」という日本固有のテキトーな言い方に加え、北アイルランドはそのイギリスの一部であって、アイルランドではない、などという少なからざる日本人のトンチンカンに対する勝手な言いがかりは充分に述べることができたのではないかと。

悉くそれがどうしたって話であるは重々承知。毎度ご無礼至極。では。

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