ついては、その ‘modal [(auxiliary) verb]’ ってもんについてちょいと確認などを。
‘modal’ が、 ‘mood’ の原形である ‘mode’ の派生形であり、形容詞としては、「法」と訳される ‘mood’、すなわち「直説」だの「仮定」だの「命令」だのに呼応した動詞の形態に関わる、ってな意味もあるとは申せ、その ‘mood’、と言うよりむしろ ‘mode’ の原義とも言える、話者の「了見」とか「存念」とかいったものに対する形容詞形もまた当然 ‘modal’ ではあり、そのさらなる名詞形 ‘modality’ が意味論的区分であるのに対し、飽くまで動詞の形を指す ‘mood’ は文法的、すなわち統語論的な用語、ってことになるかと。
……とはまた、相変らず何言ってんだかわかりませんが、とりあえず今論じようとしております ‘modal’ は、その意味論的な形容詞によって修飾される名詞、‘(auxiliary) verb’ を端折ってそれ自体が名詞になっちゃった、英語にはありがちな例で、形容詞の姿をした名詞、てなもんだと思召されたく(やっぱり意味わかんないような)。
さらに、その端折られたほうの語句においてもまた、‘auxiliary’ が ‘verb’ を修飾する形容詞だったところ、やがて言わずと知れたその被修飾語の ‘verb’ が端折られて、残った ‘auxiliary’ 自体が「助動詞」の意味になっちゃってたりとか、いずれ劣らぬ形容詞の皮をかぶった名詞、といった風情にて。
……とか何とか、結局はつまらねえ譬喩で却って話が不可解になってますな。しかもこうした御託って、既に以前書き散らしてたんでした。ちょいと読み返してみたら、やはり、と言うべきか、あんまり(全然)要領を得ません。
どうもあたし、自分では初めから充分に威張り散らしてるつもりだったのが、さんざんこきおろしてる筈の和式英文法てえもんに無自覚の遠慮の如きものが残っていて、そのためつい筆勢も半端になっちゃってるような気が致します。どうせ威張るなら、寸毫の遠慮もなく極限まで威張り通すが筋、とは改めて肝に銘じましたる次第。でないと、無駄にエラそうなだけで、肝心の主張(てなもんでもねえけど)がどうにも締らねえままになるではないか、ってことに今さら気づいてるような塩梅でして。爾後、遺漏なく威張り通すよう、せいぜい努めて参る所存。
とにかくまあ、 ‘modal verb’、およびそれに類する ‘modal adjective’ だの ‘modal adverb’ だの ‘modal noun’ だのの役どころを指す ‘modality’、つまり下拙が言うところの「了見」だの「存念」だのってのがぜんたい何のことなのか、ってのを今さらながら申し述べますと、まずは大きく2つに区分され、1つは ‘deontic’、 すなわち「義務」だの、「許可」「禁止」といった類い。今1つは ‘epistemic’ で、「蓋然性」やら「確実性」やらについての「認識」に関わるもの、とでもいったところになるかと。いずれも「話者の思うところ」を指す、とは申せましょうか。両語ともギリシャ語源の由。
それで思い出した。40年あまり前の高校時分、発刊されたばかりの『エピステーメー』なるわけの知れねえ哲学雑誌(?)を学校に持って来て、(これ見よがしに?)教室で読んでた物好きな級友がいたんです。フーコーの提唱になるというその ‘épistémè’ たらちゅう概念だか何だか、英語では単純に ‘episteme’ なんですけど、文法、言語研究におけるやつと同源だったのね、って感じ。「知」とでもすべきギリシャ語がネタではある、ってこって。
余談でした。それはさておき、 ‘modality’ の細目におけるこの ‘epistemic’ をさらに細分して、と言うよりそれとは別枠の下位区分として、 ‘alethic’ というやつも唱えられておりまして、やっぱりギリシャ語源なんですが、言わば確たる知識、情報に依拠した判断を指す ‘epistimic’に対し、論理による推測、演繹的推断とでもいった部類に相当、ってなところです。「犬が西向きゃ尾は東」が ‘epistemic’、「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」が ‘alethic’、とでもなりましょうか。すみません、今思いついた無理やりの例でした。
それより、この ‘deontic’ と ‘epistemic’ にもう1つ、 ‘dynamic’ という区分も加え、都合3種の ‘modality’ を前提とする場合も多く、その第3種は何かてえと、話者よりは主語(一人称なら話者本人だけど)についての「能力」「意思」「性向」、あるいは状況的な判断による帰結みたようなもんのことだったりします。あ、この‘dynamic’ ってのもまたギリシャ語由来でした。英語におけるこれら一連の学術用語は、どうやら皆19世紀が初出のようですけれど。
いずれにしても、たとえば ‘can’ とか ‘must’ とか ‘will’ とかが、上記の3つ、少なくとも前2者の区分にまたがる用法を有するのは結構明らかで、 ‘modal’ という助動詞がいかに使い出があるかよくわかる……んじゃないかしらと。つまり、
You must love your wife.
が「汝の妻を愛せよ」なら ‘deontic’、「かみさんに惚れてんだね」ってんなら ‘epistemic’、 より厳密には ‘alethic’ ってな寸法。書いてるうちにいろいろ思いついちゃったんだけど、結構おもしれえじゃねえか、英語の ‘modals’ ってのは、という感じではあります。
でまあ、そういった「了見」やら「存念」にも、言ってる本人にとっての感覚的、観念的な「遠近」の差異があり、それを言い分けるのが、つまるところは実際の時間的状況から離れた「現在」と「過去」という2つの ‘tense’ の用法、ってな理屈になるのではないか、ってのが今回の駄論の主旨……の筈なんですよね。
英語の助動詞と言えばまず、堅気の、じゃないや、一般の動詞としても引っ張りだこの ‘be’‘do’ ‘have’ ってのがあり、この3つは、二足の草鞋を履いたそのその横着ぶりの故(?) ‘primary verbs’ とも称される、ってことは以前申し上げました。進行とか受動とか、疑問だとか否定だとか、または完了だのとか、とにかくそういったことを言うのには欠かせない、文字どおりの助動詞、つまりそれ自体は何ら確たる意味を持たず、専ら本体である ‘full (or lexical) verb’ に添えられて初めてなにがしかの意味を成す助っ人的な存在、ってことになるかと。
‘full verb’ ってのは ‘main verb’ とも呼ばれるやつなんだけど、それだと意味が広範に過ぎてあんまり役に立たないってことで、こうは言っとるわけですが、日本じゃどうも「本動詞」としか言いようはないらしい(?)。だからヤなんですよ、日本語で説かれた英文法てのは。なんてね。
またわがままを言ってしまった。とにかくも、その3つの主要動詞以外の、結構数のある助動詞が、 ‘modals’ 「(叙)法助動詞」と呼ばれる一党でして。いちいち括弧付きで「叙」の字を示しますのは、どうにも「法助動詞」っていう「普通の」言い方が気に入らないから……って、またしてもわがままばかりでまことに相済みませず。とにもかくにもその ‘modals’、先般もちょっと触れとりましたが、文句なくそれに該当するのは
shall
should
will
would
can
could
may
might
must
の9つということにはなっとります。これに、ちょっと性質を異にする
dare
need
ought (to)
used (to)
ってやつら(の一部)をも加えて ‘modals’ と括る手もありますが、助動詞とも本動詞ともつかない、あるいは助動詞としての条件を完全には満たしていない、ということで、これらには ‘marginal modals’ とか ‘semi-modals’ という下位区分の扱いも充当されます。その場合は、最初に挙げた文句なく助動詞たる9つは、 ‘main modals’、あるいは ‘central modals’ とか ‘core modals’ などということになるようで。言い方がいろいろなのは、またしてもその文法流儀による違い、ってことかと。
さらに、これらに加えて ‘have got (to)’ だの ‘have (to)’、あるいは ‘had better’ とか ‘had best’ とかってのも広義の ‘modal’ であると説いている例もありますものの、なんかそういうのまで助動詞扱いしちゃったら、結構止め処なく何でもかんでもってことんならねえか、とは思量致すところにて。意味や用法の上で堅気の動詞(句)とは別枠、って気持ちもわからねえじゃねえけれど、こうした一連の例については、 ‘modal idiom’ との区分を当てるのが、とりあえずは穏当であろうと存ずる次第にて。
毎度話が前後するようで恐縮ですが、そもそも英語の助動詞、 ‘auxiliary (verb)’ を、堅気の ‘full/lexical verb’ と分つ条件を並べると、下記の4つということにはなりますようで。
1.否定形は、その後に直接 ‘not’ その他を付して示される: ‘You don't (= do not) know.' とか ‘I would never do that.’……とか
2.疑問は、主語との位置を入れ換えることによって示される: ‘It may happen.’ → ‘May it happen?’
3.動詞句全体の繰返しを避けるべく、その代用として機能し得る: ‘You like it, and so do I’(‘... and I like it, too’ ってこって)
4.強調を表す: ‘It does matter.’ とか ‘I shall return.’ ……とか
つい掲げてしまった最後の例についてちょいと付言致しますと、これは例のダグラス・マッカーサーの名文句ということになってるやつで、日本軍の意想外の攻勢に屈してフィリピンからオーストラリアへ撤退した後、 Adelaide に向けて実はこっそりと鉄道で移動中、 Terowie という片田舎の駅で、図らずも出迎えに詰めかけていた住民を前に急遽行った演説の一節、だったとかいう話です。
‘I came out of Bataan and I shall return.’ というのがオリジナルの文句だというのですが、現地の新聞記事では ‘I came through and I shall return.’ となっており、その後本人がこの ‘I shall return’ っていう文句をほうぼうの演説で使い回してはいるものの、この最初のときは普通に ‘I will’ と言ったのを、それじゃいかにも「弱い」と思ったオーストラリアのマスコミが ‘shall’ に差し替えたんじゃないか、との噂もあり。
敢えて米語としては珍しい(今どきはイギリスでもあまり流行らない)この ‘shall’ を、言語的には今よりもっと英国的であったろう豪州の記者は、ひょっとすると無意識にその英国的演説口調にしちゃった、ってことだったりして。その記事を転記したウェブサイトの表記では、 ‘organizing’ が ‘organising’ と英国綴りになってましたし、やはりマッカーサー本人の台詞をそのまま記事にしたわけではないのでは……と思ってたら、 Adelaide 到着後にぶった演説の一部ってのが YouTube にありました。なんせ昔のニュースフィルムなので(?)、音声も映像も不鮮明ですが、わざわざ字幕が付されており、そのアップされていた部分だけをちょっと整理して記しますと、
I landed on your soil. I said to the people of the Philippines since I came, ‘I shall return.’ Tonight, I repeat those words: ‘I shall return.’ Nothing is more certain than the ultimate reconquest and liberation from the enemy of those and adjacent lands.
ってな感じ。早速 ‘I shall return’ を連発してますな。先に田舎の駅で言った ‘I came out of Bataan’ って文句を、本人がこのときに ‘I came through’ に縮めた、との記述も見ましたけど、とりあえずこの映像にその台詞は出てきません。それにしてもこれ、当時の状況では何ら確たる根拠のない虚勢、あるいは負け惜しみとも思われるものの、日本軍の攻勢に恐怖を抱いていたオーストラリア人にとっては、たとえはったりだろうと、アメリカ軍人によるこうした発言はかなりの励ましとはなった、とのことです。
いずれにしても、マスコミが勝手に ‘will’ を ‘shall’ に変えたって噂は、当時も今も米国的な言い方としては普通じゃない、ってところから生じた後世の付会ってやつなんでしょう。ことによると、先祖がスコットランドの名族だとかいうのを誇示せんがため、日頃から気取って英国風の物言いをしていたとか? それにしちゃ普通に北米訛りだし、スコットランド弁自体が英語としちゃ相当な曲者だし。ま、そこまで自己顕示癖の強い人物だったかどうかなんざ、もとより知る由もございませず。
でも、ゲルマン語の接尾辞、‘-son’ とか ‘-sen’ とかに対応するゲイル系の接頭辞 ‘Mac-’ から、しばしばアイルランド系だと誤解され、そのたびに「一緒にするな、俺はスコットランドだ」って憤慨してたとは仄聞致します。イギリス人に言わせれば、どのみちただの ‘Yank’ じゃねえか、ってところではありそうですが。
閑話休題。さてその ‘shall’、二次大戦初期には、チャーチルも ‘we shall fight’ を連発する演説をしており、そっちはまあもともとイギリス人だし、当時は今よりずっと普通の言い方だったろうから、ことさら強烈な雰囲気とも思われません。いずれにしろこれ、 ‘will’ だろうが ‘shall’ だろうが、そこを強く言わないと「決意の表明」には到底聞こえませんね。特に後者、つまり件のマッカーサー節に出てくる ‘shall’ は、ここを強調しないと、決意表明とは裏腹の、ぼんやりとした「予想」のようになってしまいましょう。
てえか、あたしも中高では、一人称主語の ‘shall’ は英国用法の「単純未来」で、「意志未来」が ‘will’、って習ったから、このマッカーサーの台詞には違和感を禁じ得なかったのでした(「単純未来」は英語の ‘future simple’ とはまったくの別物、ってことについてはこちらを)。
語源説としては、 ‘will’のほうが、「意思(志)」とか「決意」とか「目的」とか「願望」とかを意味する古英語の名詞 ‘willa’、あるいは「欲する」「願う」「意図する」といった意味の動詞 ‘wyllan’ もしくは ‘willan’ から派生、ってんですが、「意思」や「意志」、「遺言」といった名詞のみならず、 ‘well’ ってのもまた同源だそうで。いずれにしろ、これが元来は専らいわゆる「意志未来」の助動詞であったことは疑いもなく。
これに対し、‘shall’ の語源は古英語の ‘sceal’ だとかで、もともとは「義務がある」というほどの意味だったとのこと。そこから、日本で言う「単純未来」、つまり主語の意思とは無関係の、あるいは意思(志)では如何ともし難い未来を表す助動詞に転じたもののようで、それを ‘will’ をも凌ぐ強力な意志の表明(主語ではなく話者の)に転用するようになったのは英国式で、それとは裏腹に‘will’のほうを意思の伴わない、元来の ‘shall’ と同義の「単純未来」に用いるようになったのが米国流……だったのが、ここ数十年来の米帝侵攻の結果、英国を始め、英語国全般で ‘shall' が後退し、 ‘will’ がどこでも幅を利かすようにはなっております次第。
‘I shall’ のほうが、‘I will’ より強い意志を示す、ってのは、もともとが自分の意思とは無関係の筈の ‘shall’ を用いることによって、「これは俺が勝手に思ってるんじゃなくて、何が何でもそうするしかないんだ」ってな謂いであった、とは申します。いずれにせよ、イギリスでもとっくの昔に‘shall’ は、件のマッカーサーやチャーチル的な芝居がかった台詞だとか、法令だの契約書だのといった非日常的な文書の文言なんかを除くと、まず一人称主語にしか用いられない、というのが実情であり、それも相手の意向を尋ねる場合なんかに限られる、といったところではあります。
たとえば、 The Three Degrees の70年代ヒット、「天使のささやき」なる邦題が付された ‘When Will I See You Again’ って、本来の言い方、それも特に英国式なら、 ‘When shall I see you again?’ となりそうなところ、そう言ったんじゃ、「今度いつ会える?」じゃなくて、「次はいつ会えばいい?」「次回はいつお訪ね致しましょう?」ってな感じになっちゃうってなところでして。
アメリカではそういう、相手の意向を尋ねる場合も ‘shall’ よりは ‘should’ のほうが普通だってんですが、そうなると、マッカーサーの ‘I shall return’ がやっぱりちょっとフツーじゃない、随分と大仰な、あるいは気取った言い方だったってのが弥が上にも光り輝くような塩梅ではございましょう。それこそ大袈裟か。
ところでこの曲名、既に15年前のタランティーノ映画、ユマ(ウーマ?)・サーマンの当り狂言、 ‘Kill Bill’ の中で、もう古くて若い層には通じないネタとして出てきました。アメリカでももう忘れられてんのか、と、ちょっと意外だった思い出が。あたしゃこの映画、だいぶ後に友人から借りた DVD で初めて観たんですけどね。
……と言うか、こうも厄介なことんなるんだったら、ハナからこんな例は使わなきゃよかったのに、と少々後悔してるところです。毎度変らぬ場当り式の所産。ふ、しかたがねえ。
さて、そもそもこの話、助動詞4箇条とでも言いたくなる4つの性質について、「ちょっと」言っとこうと思ったところから、またしてもうっかり迷い込んでしまった脇道なのでした。
で、またしてもまことに恐縮とは存じつつ、どうにも長くなっちゃったんで、続きはまたも次回ということに。毎回講釈師のようなこと言ってますけど、決して狙ってやってるわけでは……。
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