2018年8月17日金曜日

完了は受動から派生、とかいう話(3)

早速ながら、前回言っとりました、現代語では使役の意味にとられがちな「元来」の語順である ‘I have a book bought’という形、本来の文意は「買われた(俺が買った)本を持っている」、つまりは「本を買うという行為が完了し、その結果が今ここにある」といった意味であったものが、やがて後置の「形容詞」 ‘bought’ を、言わば原義である他動詞と見なし、当然のようにその目的語である ‘a book’ の前に移動させた結果が、つまりは「完了」と呼ばれる言い方の始まりではあったのでした。

ハナからそう教えてくれりゃ、俺だって「何だよ、このわけの知れねえ言い方は」などとは思わなかったものを、なんせ教えてる英語教師自身がたぶんそんなカラクリなんざ知る由もなく、単にそういう決りだってだけの認識しかなかったに違いなく。

で、これも既述のとおり、ほんとに言いたいのは本を持ってるかどうかってことではなく、その本に何があったか(ってより自分がそれをどうしたか)ってことなので、それを明示せんがため、形の上では述語動詞たる ‘have’ を脇役に格下げし、これも形の上では付加的修飾語に過ぎぬ ‘bought’ のほうこそが ‘book’ にとっては真の他動詞、ってな曲解(?)により、その目的語 ‘book’ を後ろに持ってったところ、よんどころなく ‘have’ と ‘bought’ が繋がっちゃって、かくは「助動詞」の ‘have’ に過去分詞を連ねたものが「完了」とは成りにけり、てなところですかね。

でもそれはどうやら、ずっと昔ラテン語に生じた現象のようで、古英語ではドイツ語や北欧語などのゲルマン語一般と同様、この場合の ‘bought’ は飽くまで目的語を後ろから修飾する形容詞だったのが、いわゆるノルマン征服の副産物として、実はゲルマン語の性質も包含するという千年前の北フランス方言の影響により、英語にもそのラテン語的な語順が入り込んだものである……らしいんですね。

さらには、その ‘have’ +過去分詞が「完了」ってことに落ち着くと、本来 ‘have’ なんざお呼びでない、つまり目的語なんかない自動詞の分詞にそれを冠したものまでがやはり「完了」を表すかのような「錯覚」も定着するに至る……とかね。
 
                  

あ、国語とは裏腹に(たぶん)、英語(欧語)の動詞は元来他動詞こそが基本で、自動詞用法は皆あとから派生したものである、とも聞きますが、いずれにせよ、自動詞には、なにしろ目的語なんてもんがあり得ないんだから(それのない、あるいはなくてもいいのが自動詞……てえかそれ、「他者に及ぶ」ってほどの意味である ‘transitive’ の否定形たる ‘intransitive’ を ‘verb’ に冠したやつの訳語……って、毎度下手な言いようで恐縮)、その過去分詞は受動ではなく純然たる完了の意の形容詞。

となれば、 ‘have’、つまり持ってる持ってないなんて話はハナから無用の筈。 ‘It's gone’ は現在完了 ‘It has gone’ の縮約形である、ってだけならまだしも、 ‘It is gone’ はその俗語表現、などと寝惚けたこと言ってるバカ教師どもよ(毎度すみません、つい昔の恨みが……)。どう足掻いたって、 ‘has gone’ なんぞという、本来は意味をなさねえ言い方よりゃ、 ‘is gone’ のほうがよっぽど間尺に合うし、実際そのほうが遥かに正統的……らしゅうございますよ。

それが、下拙の唱える「自他(自動詞と他動詞)の混同」てえやつにより、件の他動詞の例、すなわち

 ‘I have a book bought’ → ‘I have bought a book’

 てえ言い方をうっかり拡衍して、元来は無縁であった自動詞にまで用いたのが ‘is gone’ ならぬ ‘has gone’ などという妙ちきりんな表現であった、という理屈にはなります次第。でもまあそれで、「have +過去分詞(自他を問わず)」っていう英語の完了表現が確立するには至った、ってわけなんでしょう。まずはめでてえじゃじぇえか。

まあそれが、ゲルマン語を基調としながらも、この千年足らずの間にフランス語経由でラテン語的要素をも包摂するようになった、いわゆる現代英語の特徴の1つ、とも申せましょうか。確実なことは結局何も知らないんですけどね。
 
                  

因みに、古代ギリシャ語もラテン語も、現代の独語、仏語、伊語その他も、あたしゃなんにも知らないってことは、しつこく申し述べておりますとおりではあるのですが、英語以外でもやはり ‘have’ に対応する「助動詞」(‘haben’ だの ‘avoir’ だの ‘avere’ だの……って、これネットのカラ知識です)と当該の動詞の過去分詞との組合せが「完了」の基本技ではありますようで。

いずれにしてもそれは他動詞の場合であって、自動詞については ‘have’ ではなく ‘be’ の対応語(‘sein’ だの ‘être’ だの ‘essere’ だの……)を用いる例も少なからず、ってことらしい。やっぱり英語が特別おかしくなっちゃってたのね、って感じです。

ドイツ語ではどうも、英語の ‘have’ が助動詞化したのとは違って、未だに(正しくは?)目的語の後に分詞が置かれる(らしい)ってことも既に先般申し上げておりますとおり。でも自動詞の完了は、やっぱり助動詞と分詞が並んじゃうんでしょうかね。てえか、知りもしないドイツ語の話なんか初めからしなきゃいいだけか。こりゃまた失礼。

それにつけても、今の英語の完了、あるいはその卸元(?)のラテン語だのフランス語だのの言い方ってのは、飽くまで後世の誤用あるいは慣用だった(?)ってことで、自動詞には ‘have’ ではなく ‘be’ を用いる言い方が、 ‘It is gone’ のみならず、今でも充分現役なのも、普段実際の英語に接していれば自ずと知れる自明の理。それをまあ、昔の(今も?)英語教師どもは……ってところですね。しつこいけど。
 
                  

さて、‘have’ の目的語を後ろから修飾する過去分詞を、形容詞ではなくそれこそが真の他動詞、って意気込みで前に移動させたところ、元来の動詞であった ‘have’ のほうが助っ人の役に格下げ、っていう、恐らくラテン語ではとっくにそうなっていた言い方、英語に定着したのがいつ頃なのかは依然わかんないんですが(それほど執拗に探ってるわけでもないし、おりゃどうせ研究者なんてもんでもなく、単なる物好きのトーシロですから)、先般よりたびたび引合いに出しとりますシェイクスピアの戯曲にも、旧来の語順、すなわち過去分詞が目的語の後っていう完了表現も散見されます。十中八九、その16世紀から17世紀への過渡期には、既に古風なゲルマン語的言いようになっていたとは思われ、その証拠に、件の 『ヘンリー六世』という「時代物」でも、‘hath gotten London Bridge’ とか ‘hath got the field’ とか、現代英語と同じ並びにはなっているという次第。

背景にされた15世紀半ばとて、上流階級のフランス語(ノルマンジー訛り)と、下々の使う古英語との折衷の如き中英語の時代も既に最末期(あるいは現代英語の最初期)、やはりとっくにラテン語風の完了表現が普通ではあったでしょう。知らないけど。いずれにしろ、沙翁自身の頃には今と同じ語順になっていた、ってことは了解し得るというわけです。
 
                  

かと思うと、同じシェイクスピアの、もうちょっと後の作である例の『ハムレット』(正式には ‘The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark’ ですと)には、「ラテン化」以前の語順も見られる、ってのに気づいちゃいまして、しかもそれ、芝居の台詞としてなかなか洒落た演出も感ぜられるやつなんですね。

全般に台詞なんてものは、これは洋の東西を問わず今だって当り前の作法のようになってますけど、実際の発話にはまずあり得ない、いちいち韻を利かせたりするような、かなり気取った物言いがむしろ普通。だから、敢えて古風な語順になってんのも、その後数世紀にわたって生き残った(今のポップソングにさえ見られる)、承知の上の擬古調、文芸的表現、ってことなんでしょう。

これなんかは、やはり時代を溯ったデンマークの話でもあり、当時としても初めから普通の言いようではないとは思いますけれど、実父の先代ハムレットがその弟、つまり自分の叔父に毒を盛られて王位を簒奪された、ってことをその父親本人の亡霊から聞かされ、仇討ちを託されるも、実母は父の仇であるその叔父とさっさと再婚しちゃうし、思い悩んで心も荒び、敢えて奇行を重ねる主人公の二代目ハムレットを、自室に呼びつけて意見する母ガートルードと、抗弁する我がハムレットとの対話が、下記の第3幕第4場冒頭、という次第。勝手な訳を施して掲げときます。

Gertrude: Hamlet, thou hast thy father much offended.
ガートルード:ハムレットや、そなたは己が父上を随分と侮辱致しましたね。

Hamlet: Mother, you have my father much offended.
ハムレット:お袋さんよ、あんたが俺の親父を随分と侮辱したんじゃないか。

これ、現代語にしちゃうと

 You have insulted your father.
 You have insulted my father.

ってな感じで、違うのは ‘your’ と ‘my’ だけんなっちゃうんですね。17世紀初頭の英語だからこそ、古風な母と現代っ子の息子との対比を際立たせ、息子の反抗心を明示する効果も得られた、といったところかと。

でも、芝居の台詞としては何より語呂が肝心、という観点からは、むしろその1語だけの違いこそが味噌だったりして。その点では、原記における2人のやりとりも音節数はまったく同じだし、語義の対立とは裏腹に ‘thy’ と ‘my’ などは韻を同じうしている、という巧妙さ。

今どきの洋画の吹替えなんかでもそうなんですけど、語呂に義理立てすれば意味が伝わらないし、意味を明確にすれば言語音のおもしろさは諦めざるを得ない、という葛藤がときに厄介なところ。戯曲だの韻文だのといったこういう昔の名作なんざ、よほどの物好き、おっと情熱家でなきゃ訳そうなんて気にゃならねえんじゃねえか……ってのは俺の偏見か。

それはさておき、おもしろいのはこの後の母親の台詞で、

 Come, come, you answer with an idle tongue.
 おやおや、おまえはそんなたわけた口をお利きかえ。

って感じ。結局その母君もつい下世話(上品ならざる世俗の物言い、というのが原義)な口調になってしまう、という仕儀。これも現代語にすれば、

 Come on, you're answering back stupidly.

てなところでしょう。あんまりおもしろくないのは、身分や立場による話し方の格差は自然に縮まってゆくもの、という社会発展史的流れの然らしむるところ……だったりして。その点では、「正しい敬語の作法」などという、往々にして歴史的根拠もなければ、現代の語法としては非合理で珍妙なだけの物言いがいつまでもありがたがられたり、上下関係だの性別だのによって言葉遣いが違うのは当然で、しかも文化水準の高さの証左、などというあまりにも情けねえ我が国語の現状こそ、日本社会の未成熟を如実に物語るもの……なんてね。

民主主義だ主権在民だなどと景気のいい看板だけは掲げながら、個人の資質とはまったく関係のない社会的存在の格差は当然のように是認してんじゃん、どうせ、みたいな。

「俺」ではなく「僕」と言いなさい、なんてのも、考証的には笑止の極み。いったいどっちが伝統的な日本語だと思ってんだよ、ってところですね。近世の日本じゃ、老若男女を問わず、「おれ」こそごく穏当な自称だったんですぜ。明治以降のほうがよっぽど遅れてんじゃん、とかね。
 
                  

失礼。話を戻します。もう1つ、語順の逆転した、ってより逆転する前の完了表現が、同じ『ハムレット』の後続場面、第4幕第1場に出てくんです。さっきの親子喧嘩の末、物陰に隠れて聞き耳を立てていた、現王たる叔父クローディアス(Claudius) の「スパイ」の如き家老、じゃなくて大臣のポローニアス(Polonius) を、叔父本人かと思ったハムレットが刺殺し、その死骸とともに母の寝室を去った後、その叔父が、これまた監視役のように使っていたハムレットの「学友」、ローゼンクランツ(Rosencrantz)とギルデンスターン(Guildenstern)に言い渡すのがその台詞。

因みに、ハムレットの恋人、ヒロインのオフィーリア(Ophelia)は、その間違って殺しちゃったポローニアスの娘だったりするため、余計に話が厄介になってくんですが、それはさておきまして、叔父のクローディアスがその2人に次のように言うんです。

 Friends both, go join you with some further aid.
 Hamlet in madness hath Polonius slain,
 And from his mother's closet hath he dragged him.
 Go seek him out, speak fair, and bring the body
 Into the chapel. I pray you, haste in this.

 両人よ、ほかにも手助けを見つけるのだ。
 ハムレットが乱心してポローニアスを殺してしまい、 
 母の部屋からその死体を引きずって行った。 
 探し出して、穏やかに話し、遺体を
 礼拝堂に運んで貰いたい。どうか急いでくれ。

この2行目の完了がまた「ラテン化」以前(と、ひとまず勝手に呼んどくことに)の語順。今の普通の言い方だと、‘has slain Polonius’ とはなります。てえか、そうしないと、「ポローニアスを(習慣的に?)殺して貰う」とでもいうような、かなりシュールな文ってことんなりそう。でもそういう誤読があり得ないのは、やっぱり文脈てえもんもあるし、何より古来の、つまりゲルマン語的な完了だとこういう並びになる、ってことを、今の英米人だってみんな知ってるからじゃないでしょうかね。古文は苦手でも、時代劇の台詞が理解できない、って日本人もまずおりませんでしょうし。

いや、今どきはそれもどうだかわかんねえか。ってより、まず時代物の脚本家が平気で間違えてたりするし。
 
                  

また話が逸れました。まあそんな塩梅で、昔の(あるいは昔風の)詩歌とか芝居がかった文句では、 ‘have’ と過去分詞が随分と離れた完了表現ってのも珍しかないけれど、シェイクスピアの時分には既に擬古風の言い方とはなっていた、ということなんでした。

この『ハムレット』も含め、他のシェイクピア作品もちょっと覗いてみたところ、完了ってのも結構出てくるんですが、十中八九現代語と同じ語順になってますね。過去分詞が末尾ってのはやっぱり既に古形ではあったものと臆断致す次第。

それをいくつか並べて、今回はひとまず擱筆ということにしときます。まだこの話、完了談義は続きますが、それはまた次回ということで。

 I have seen nothing.

 ... I have entreated him along ...

 What chance is this that suddenly hath cross'd us?

 That hath contrived this woful tragedy!

 Thou hast astonish'd me ...

 Thus Joan la Pucelle hath perform'd her word.

卒爾ながら、これは『ヘンリー六世』中の「悪玉」、Joan la Pucelle ことジャンヌダルクが、自らを三人称になぞらえて吐く台詞。

 I have perform'd my task ...

 Some sudden qualm hath struck me ...

 ,,, by whom I have forgot ...(これは先般言及)

 ... thou hast lost it all.

 Thou hast spoke too much already ...(これも既出)

という塩梅でございます。結局は、圧倒的に現代英語の語順だらけ、ってことなんでした。自動詞の例は見当りませんね。ほんの一部しか見ちゃいないから、何とも言えないわけではありますけれど、ひょっとすると自動詞の完了ってのは、この後の英語に生じたさらなる誤用の産物で、実はラテン語にも、その流れに属するフランス語……の俚言であったノルマン人の言語にも、自動詞の完了ってのはなかったりして。どうせわかんないけど。

完了がない、ってよりは、自動詞の場合は、やはり助動詞が ‘have’ なんかじゃなくて、スラブ語ではそうだという、受動と同じ ‘be’ を用いるのが正統、ってことだったりして。やっぱりわかんないけど。
 
                  

まあいいでしょう。本日はこれにて。毎度恐縮。

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