2018年8月5日日曜日

改めて「時制」または ‘tense’ について(11)

随分と久しぶりって心地ですが、とりあえず暫く離れていた ‘tense’ 絡みの ‘modal’ 談義に回帰、ということでひとつ。

そもそもこの長~い話、 ‘tense’、いわゆる「時制」ってのが、原義としては「その動詞の表す動作、状態がいつのことなのかを示す語形」というようなもので、そのラテン文法本来の定義に従えば、今の英語には「現在」と「過去」の2つしか ‘tense’ はなく、単語では表せない「未来」はその限りに非ず、とか何とかいう話から、実はその2つ、実際には時間的な区分ではなく、話者にとっての「遠近」の差をこそ表すもので、感覚的に近ければ ‘present’、遠ければ ‘past’ ……ってのを例示するのに、一般の動詞よりはむしろ、「(叙)法助動詞」と訳される ‘modal (verb)’ てえ連中のほうがおもしろそう、などと思ってそれに言及したのが、ここ暫くの逸脱の発端なのではありました。文が長いのは、詰め込めるだけ詰め込みたがる、生来の貧乏性のせいかと。

なお、ラテン文法の定義、というのも、形態的な観念では、ってことであり、意味的観点からは、動詞単体ではなく、 ‘will’ や ‘shall’ と当該動詞の原形(いわゆる ‘infinitive’「不定詞」)との抱合せなんかも1個の ‘tense’ とはなり、その流儀だと、今度は過去・現在・未来という時間的な要因とは基本的に無関係な一群の ‘modal’ には、そもそも「時制などない」という極論(?)も可能なわけで、まあ要するに、何をどう定義するかによって、同じ用語がまったく別のものを指すことも珍しかない、っていう、結構ありがちな話でもあるということでして。

で、これも既に再三申し述べておりますように、下拙の了見としては、その ‘tense’、飽くまで単語としての動詞の「形」を指すものではあり、やはり ‘present’ と ‘past'  の2つしかあり得ず、それも、決して実際の現在と過去を示すものではない、っていうのが前提……のような。

それと、またも既述ですが、完了だの進行(つまり未完)だのも、「時制」とは別枠の「相」という括りを是とするものにて、その「相」もまた、「完」「未完」という二律背反的な対立概念の別かと思いきや、「完了進行形」なる言い方が平然と罷り通る以上、「完了」と「進行」は本来別枠、ってことで、旧来の ‘aspect’ は専ら後者の「進行相」に当て、前者の「完了」については、これを ‘phase’ と称する……ってなことについてもくだくだ言っとりました。それはもうええです。ちょいとめんどくせえ。てえか、日本語じゃ依然一緒くたのようだし。
 
                  

てことで、肝心の ‘modal’についての話。

都合9つの ‘(central/core/main) modals’に、ちょいと半端な ‘marginal modals’ または ‘semi-modals’ ってのもあって、それも分類によってまちまちなれど、とりあえず4つばかり挙げて、いちいちどうでもいい講釈を垂れてるうちに、どんどん話が逸れてっちゃって……といういつもの流れなのではありました。そこから漸く主眼である9つの ‘modal’ にまで立ち返って参ったる次第。

英語助動詞の特徴、あるいは条件とも言える ‘NICE properties’、すなわち

 Negation(否定)
 Invertion(倒置)
 Code(符号)
 Emphasis(強調)

の4つを備えたのが、その9つの正統派 ‘modals’ たる

 can
 could
 may
 might
 shall
 should
 will
 would

ならびに

 must
 
で、他には、堅気の動詞としても暗躍する、言わば二足の草鞋を履いた3つの ‘primary verbs’、

 be
 do
 have

もそれに該当、ってなこともだいぶ前にひととおり語ってはおりますけれど、間が空いちゃったんで、懲りずにまた繰り返しちゃいました。

この3つのうち、 ‘be’ に関しては、もう一足の草鞋とも呼ぶべき、堅気の、じゃなくて一般の動詞としても助動詞と同じ挙動を示すってわけですが、実はそれ、数十年(百年ほど?)前までの英国では ‘have’ もまったく同じだった、てな話からどんどん枝道に入り込み、前回までの ‘got’ 対 ‘gotten’ などというどうでもいい話にはまり込む仕儀とは成り果てにけり、みたいな。ほんとは何百年か前まで動詞はみんなその伝で、てより、そもそも助動詞なんてもんがなくて……ってことも言ってましたっけね。なんか繰り言ばかりですみません。やっぱり寄る年波てえやつか……。

あと、この3つと、9つの ‘modal’ の違いとして、後者には主語の人称や数による語形の別(例の「三単現のエス」とか)もなければ、それ自体は不定詞だの分詞だのって形はない、ってところはありますけど、それもまあいいでしょう。
 
                  

ええと、そもそもなんでこの ‘modals’、「(叙)法助動詞」なんてものについて御託を並べようと思ったかてえと、さっきも申しましたとおり、動詞全般の ‘tense’ というもの(を意味ではなく形態としてとらえた場合)には、 ‘present’ と ‘past’ の2つしかない、ってだけじゃなく、それが現在や過去という画然たる時間区分を表す用例はむしろ一部に限られ、多くは、未来への言及をも含んで、実際の時間の枠とは別に、専ら話者にとっての遠近あるいは親疎、現実味の有無または濃淡の如きものによって使い分けられている、ってなことが、何しろ初めから ‘mode’、すなわち「気分」とか「意識」といったもの(そっちはもともと ‘mood’だったんだけど)を示す言い方、ってのがその ‘modal verbs’ の身上であれば、 ‘tense’ が件の「遠近感」を示している好個の例とはなろう、ってな了見だったもので。……と、相変らず貧乏性の発露たる文の長さ。自らは如何ともし難く。すみません。

で、単純な過去や未来という「遠い」時間枠の狭間に位置する「現在」という時間区分(いつからいつまでを指すかは実に多様、ってことも結構しつこく言ってましたが)への適用も含み、話者にとって「近い」、つまりより素直な、あるいはより現実的な事柄に用いられるのが、 ‘present tense’ の基本的な機能であるから、言わば「素の時制」ってことで ‘unmarked’「無標」であるに対し、それとは裏腹の「遠い」事象、つまり眼前の状況とでもいうべき素朴な「現在」とは既に切り離された明白な過去への言及に加え、たとえ現在や未来についての話であっても、自分にとって現実味だの蓋然性だのってものの認められない事柄については ‘past tense’ が充当され、その素朴ならざる特性から、こちらは ‘marked tense’、つまり「有標の時制」として区分される、ってな理屈だったりもして。

やっぱり文が長えな。ますますわけがわからねえ。重ねてすみません。
 
                  

図らずも、ってのも空々しいけど、なんせだいぶ前に書き散らしたことだったので、ちょいと振り返っとくつもりが、やっぱり随分と、てえか無駄に長くなっちまいやして、相変らず申しわけござんせん。そろそろ眼目たるその9つの ‘modal’、「(叙)法助動詞」(「法助動詞」とだけ言っときゃいいんだけど、あたしゃそれが嫌いで、っていうわがままについても以前申し上げました)をダシに使った ‘tense’ の働きについての能書きを垂れて参ると致します。

まず、その ‘modal’ における ‘tense’ のありようについて私見を述べますと、一般の動詞における基本的な区分、つまり単純に「今」の話なのかもう「終った」話なのかってのを分かつ ‘present’ および ‘past’ っていう対比は殆ど成り立ちません。だから、「法助動詞に時制はない」などという主張もなされるわけですが、再三申し述べておりますように、あたしゃその ‘tense’ ってのを、意味ではなくまずは形の別として認識しとりますので、その了見の下では、たとえば ‘can’ は紛う方なく ‘present’、 ‘could’ は否応なく ‘past’ とはなります次第。

ただし、これも諄くて恐縮ながら、 ‘can’ が専ら現在への言及に用いられ、 ‘could’ は過去の話専用、なんてことがないのも言を俟たざるところで、それは ‘may’ と ‘might’、 ‘shall’ と ‘should’、 will’ と ‘would’ についてもまったく同じ。これらは、それぞれ対にはなっているけれど、お互いに別々の意味、機能を有しており、したがってそれぞれが個別の ‘modal’ とは分類される、ということなんです。現在か過去か、って言ったら、時間状況の設定としては基本的に全部現在、ってことんなっちゃいそうだし。

かと言って、意味の上で現在と過去との対比を成すことはないのか、てえとそんなこともありませず、たとえば、

 I think I will do that.



 I thought I would do that.

では、 ‘will’ と ‘would’ は単純な時間状況の区分を示しているだけで、それは

 She says she loves you.



 She said she loved you.

における対比と何ら変らず、ってところです。一方

 (When I was young)I'd (= I would) listen to the radio.

の ‘would’ は、話を若い頃ではなく今現在の状況に移し替えたとしても
、決して

 I'll listen to the radio.

にはならず、対応する言い方としては単に

 I listen to the radio (every night).

とかにしかなり得なかったり、

 She may be right.



 She might be right.

の差は、時間的区分が明示されない限り、現在と過去の対比などではなく、蓋然性の度合いの差を示しているに過ぎない、っていうような具合でして、つまりはそういう違いこそ、一群の ‘modal’ における ‘tense’ の基本的な役どころ、とでも申しましょうか。あんまり、ってよりまったく鮮やかな説明とは申し難く、毎度恐縮には存じます。
 
                  

1つだけ例外的に相棒のいない、つまり「現在」しかない ‘must’ だって、意味の上ではそのまま過去への言及にも充当され、以前ご紹介したビートルズの伝記本にも

 ‘I was sure it must be a gimmick.’

っていうジョン・レノンの親父、フレッドの台詞が出てきます。久しぶりに電話で話した5歳当時のジョンがごくきれいな言葉遣いだったので、後のリバプール訛りはわざとやってるに違いない、と思ったってんです。

意味論的にはむしろ、 ‘must’ は ‘present’ と ‘past’ を兼ねる、とも言えそうですが、 ‘modal’ においては、素朴な「時制」の原義は基本的に無縁、との立場からは、形が1つなんだからいちいち現在だ過去だって分けるには及ばず、ってところでしょうか。

現在も過去も同形だからって何ら混乱の気遣いがないのは、‘cut/cut/cut’ だの ‘hit/hit/hit’ だの ‘set/set/set’ だのといった、原形、過去、過去分詞がみな一緒くたっていう多くの一般不規則動詞の存在からも明らかではございましょう。やっぱり文脈ってもんがありますから。
 
                  

こうした、実際の現在や過去とは無関係の ‘tense’ の使い分けってのは、もちろん無数の一般動詞においても常時なされておりまして、日本では未だに「仮定法過去」などと呼ばれ続けている ‘past tense’ など、まさにその典型例の如き存在。英語で ‘past subjunctive’ とされるのは ‘were’ の1語のみ、ってな話も既に懐かしくさえあったりして。

いや、そもそもその「仮定法」の「法」、果して ‘mood’ に対応するものかどうかもわかりゃしねえ、ってのが本音でして。今、自分としては当然のように「仮定法過去」と ‘past tense’ とを同列に述べましたけど、なんか日本だとそれ、動詞の「形」ではなく、ものの「言い方」のことだったりしません? だから、昔からよく「仮定法過去には、現在の事実に反する仮定に過去時制が用いられる」みたような間抜け極まる能書きが横行してんでしょうけど、「法」の前に、まず「仮定」ってのが全然 ‘subjunctive’ じゃねえし……って、それもとっくの昔にさんざん毒づいてたんだ。俺も大概しょうがねえな。
 
                  

とにかく、この ‘modals’ に限らず、動詞全般に共通する「過去とは限らない過去時制」ってもんについては、ここ30年ばかりの間に読み齧った文法書のネタなどもあり、まだまだ詳述致したきところではございますれど、やっぱりまた長くなっちまったんで、それは次回に持ち越しってことでひとつ。

たぶん、次でこのバカ長い話にも何とかケリがつけられるんじゃないかしらと。そいつぁ甘いか。

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