しかし、この事典の「町奉行歴任表」では、早くも家康入国の天正18(1590)年に、板倉四郎右衛門勝重と彦坂小刑部元成が(同時に?)就任し、かつ10年を経た慶長6(1601)年、すなわち関ヶ原の翌年に後任2人が(やはり同時に?)就役したかのようになっており、まだ江戸時代にもなっていない最初期から江戸の町奉行は2人だったとしか思われぬ記述。
ウィキぺディアの人物紹介によると、彦坂は慶長5年、すなわち「歴任表」が示す退職年度の前年には関ヶ原戦に動員されており、翌6年には東海道の巡検に任ぜられ、なおかつその職務中の不正が発覚して改易された、ってことんなってるので、なんだ、さっそく当てにならんではありませんか。
当てにならんのはこの事典のみならず、ウェブの情報もまた悉く到底鵜呑みにすべき根拠とてなく、ウィキの「町奉行の一覧」では、一方の板倉もその彦坂と同じ関ヶ原の慶長5年に辞職したことになってたりして、まあ相変らずいいかげんなもんです。もう慣れてっけど。
事典の「歴任表」は歴代の奉行を羅列する形になっていて、初期の数名を除き、名前の下に(北)または(南)と添える方式であるのに対し(その表示が混乱しているのは既述のとおり)、ウィキの「一覧」では、北町奉行、南町奉行、中町奉行(丹羽と坪内の2人だけ)がそれぞれ別々にまとめられているという体裁。それら3区分の前に、「一奉行時代」として7名の記載があるんですが、最初の3人、天野三郎兵衛康景、神田与兵衛政高、岸助兵衛正久の名は、この事典や他のサイトには見られません。家康一行が江戸に引っ越した天正18年に早速町奉行となったことになっている板倉、彦坂の前に、前任者(?)が3名いたかのようであり、その3者には就任時期の記載がないものの、いずれにしろ同年、天正18年だけで町奉行が5人いたということになっちゃいます。
しかし、そのうちの板倉と彦坂は解任年度が1年違いですので(「歴任表」には退職年の記載がなく、ウィキでは既述のように両人とも慶長5年)、この2人は同時期に町奉行を務めていたことになり、「一奉行時代」という区分は意味をなしません。まあ、役宅が固定され、それに応じて《北》や《南》(または《中》)という区分けがなされる以前、というつもりの括りかとも思われますが、では「北町奉行」や「南町奉行」の欄に記された者がすべてその「南北両町奉行所」時代の奉行かというと、明らかにそうじゃないんですよね。
「南/北町奉行」という呼称の是非はどうあれ、常盤橋(北)と呉服橋(南)という常設の役屋敷で最初に執務に当ったのが堀式部と加々爪民部であるのは各種の記述に共通する情報であり、それが寛永8(1631)年10月5日からってことらしい。①の図は「寛永九年版の絵図による」ってんですが、これも既述の如く、当の古図自体の内容は明らかに前年の堀・加々爪以前のもので、呉服橋内には前任の島田の名があり、常盤橋の屋敷の主は町奉行なんかじゃない牧野内匠。う~ん……。寛永9年9月頃って情報もあるので、交代時期の誤伝かも知れませんが。
『図説 江戸の司法警察事典』(1980年刊)所載「町奉行所の位置」より |
どのみち両人の前にはまだ北だ南だという区別はなかった筈で、であれば、板倉や彦坂、およびその後継者だという青山常盤介忠成と内藤修理亮清成を「一奉行時代」に分類し、宛もそれに続く米(木)津、土屋、島田以降の「南/北町奉行」とは一線を画するかのように扱っているウィキの記述は、やはり合理性に欠けると言わざるを得ません。先行する(?)3名についてはさておき。
尤も、「町奉行」の前は「北組奉行」および「南組奉行」であり、その初代が米津と土屋だったとするウェブの記事もあるんですが、もちろん典拠の記載はなし(「南町奉行所」との小見出しがあり、写真も2点添えられてるんですけど、ホームページは消滅しており、執筆者は不明)。「奉行所」を指して「北組」や「南組」とも言った、とはこの町奉行所事典にも書かれていることではありすけれど。
ウィキでは北町奉行の初めが米津、堀……で、南町奉行が土屋、島田、加々爪……となってまして、件の記事ではそのうちの米津が北「組」奉行、土屋と島田が、南「組」奉行ということになるわけです。その後の、固定の役宅における最初の奉行である堀と加々爪の就任時(寛永8年と記載)に「月番制」が敷かれた、とも書かれており、なるほどそれで「南北町奉行(所)」とは相成ったわけか……と危うく思っちまうじゃねえかい。やはり当時の確たる記録はないのだし、役屋敷の固定化はともかく、両町奉行の身分、職制が確立に至るのは、さらにその後任、酒井因幡守忠知と神尾(かんお)備前守元勝の時期であるとする考証のほうが妥当とは思われます。
2人制は当初からであったものが、島田のとき、相役の米(木)津が途中で死去したことにより、数年間1人だけとなったのが、実際には唯一の「一奉行時代」とも言えそうなんですが(おっと、その米津も同役の島田の死去後は2年ほど1人だった模様)、それより、堀、加々爪の前は「町奉行」ではなく「関東総奉行」とか「関東巨地奉行」だったようであり(「組奉行」はひとまず閑却)、江戸の市政はその職掌の一部(「江戸町司」とか「町の御代官」との表記もあり)に過ぎなかったのを、後世(江戸後期)の調査、研究の過程で、後の(寛永以降?)役職と一視同仁に「町奉行」と称する習慣が定着するに至った……とか?
「前任者」か?と思われた神田与兵衛と岸助兵衛は、実は板倉・彦坂とは同時期の「奉行」で、ただし前者は「小田原巨地奉行」、後者は「北条巨地奉行」との情報もあります。残る1人、天野三郎兵衛については、代りに加藤喜左衛門の名を示す史料もあるのですが、それはどうも誤伝らしい。前者も詳細はわかりません。ウェブでは「初代江戸町奉行」であるかのような記事も見られますが、やっぱりそのような役職はまだなかったでしょう。関ヶ原を10年遡る秀吉時代、江戸も大都市とは程遠く、当初は専門の行政担当官の必要もなかったのであろう、とは推考致す次第。
なんせ三百年前には既に曖昧になっていたのですから、役職名のみならず、担当者名およびその任期も確実にはわかっておらず、情報の錯綜はそれに起因するものではありましょう。結局「しかとはわからず」という記述が最も信頼できそう、ってことで。
さっきから何だかんだ言ってますが、ウィキのほうの撞着を今少し揚言しときますと、板倉・彦坂の後任、青山と内藤も、離任は同じ年、慶長11(1606)年になってるんですよね。そうなると、「北町奉行」(あるいは「北組奉行」?)の初代として、慶長9年、家康将軍宣下の翌年に就任と記された既述の米津勘兵衛や、同じく初代「南町奉行」(「南組奉行」?)として同年に就任したことになっている土屋権右(左?)衛門とは任期が重なり、一時期は町奉行が4人もいたってことになってしまいます。
前者の米津などは、その当時「米木津」と表記されていた可能性も濃厚だったりするわけですし、いずれ原典から何重にも隔絶した孫引きの孫引き、それにまた誤記も加わった結果の混乱ではあるのでしょう(わかんないけど)。
因みに、この事典にその米(木)津の記載がないことは既に申し上げましたが、後者の土屋はウィキと同様、慶長9(1604)年の就任となっております。ウィキによれば、米津は寛永元年(1624)年、土屋は慶長16(1611)年の退職(前者は死亡によるもので、没後は寛永8年または9年まで後継者不在)。「歴任表」には土屋の離任年度は記されておらず(退任の翌年に死去)、それもやはり米(木)津との混同によるものではないかと臆度致すところ(知らないけど)。
いずれにしろ、両者の屋敷の位置関係から推して、たとえこの両人の時期に「南北」の呼び分けがなされたのだとしても、八代洲河岸の土屋が南であり、米(木)津は北とならざるを得ません(寛永期の息子の住まいとは違って、土屋より南だったのでもなければ、ってことですけど)。それにしたって、この時点ではまだまだ固定の役所ではないのだから、たまたま両人の屋敷がそういう配置であったってだけでしょう。最終的に《北》の所在地となって明治に至る呉服門内の番所が、この30年ほど後、常盤橋が《北》と定められたのと同時に《南》ということになったため、その近くの私邸で町奉行に任じていた(らしい)米(木)津のことも、ウィキでは遡って《北》としているということなんでしょうか。初代「北町奉行」ったって、江戸後期に至ってもまだ一般的ではなかったその名称、いずれにしても最初期の慶長年間に用いられていたとは到底思われず。
……という具合で、何を見ても一向に辻褄が合わず、こいつぁあ結局わかりっこねえのか、と思っていたところ、さすがは我が(とまた勝手に言ってますが)真砂図書館、膨大なウェブの記事(ただし九割方は益もなし)や三省堂の立読みでは得られなかった詳細な情報を図らずも得ることができまして、もっと早くこっちを念入りに見ときゃよかった、と少々悔やまれるほどでした。
えー、中町奉行とは直接関係のない①の図にちょいとケチをつけとこうかと思ったのが運の尽き。主旨からは乖離したまま、ついまたかくも長き逸脱に堕してしまっているわけですが、行きがかりってことで、引き続きその文京区立真砂中央図書館で拾った「知見」の如きものについて書き散らします(ほんとにこれ、いつかは終るんでしょうか……)。
さて、ウェブでは閲覧が望めないような資料も豊富な真砂図書館、暇と金さえあれば(金さえあれば暇も使い放題か)もっと入り浸っちゃうところなんですが、毎回ほぼ漏れなく、参考図書閲覧専用ってことになってるテーブルに、いちいち音を鳴り響かせて勉強道具やら飲み物やらを並べ、なおかつ自分の隣の椅子にはコートやら鞄やらを無遠慮に置いたまま、それでもまあ感心にもお勉強に勤しむ……かと思いきや、すぐに居眠りを始める高校生(とは限らず、いい歳した大人にもいますけどね)なんてのが1人か2人はいて、その不快には結局馴染めずじまい。
かと思うと、係員相手に、自らのカラ知識(間違いだらけ)を声高に「講釈」するオヤジ(ジジイってほうが妥当か)ってもいやがるし。寂しいのかしら。でもなあ、民間企業だって「他のお客様のご迷惑になりますので」とか何とか言ってつまみ出すもんじゃねえの?って思っちゃうじゃねえかよ。だって長えんだもん、そのバカ講釈。1時間ぐらいやってやがったな。
とりあえず図書館じゃあ極力静かにするもんだろう、っていう基礎認識の欠けた者、ってより、なんか無自覚の自己顕示欲が漏れ出しちゃってるんじゃないか、ってなやつらが多過ぎることに、軽く驚かされ続ける日々ではございますが、そんなことにはめげず、できる限り己が目的に専心すべし……って、いちいち覚悟を決めなきゃならねえところからして、やっぱヤだよ、もう。これも俺の不寛容な性格の表れなのか。
そんなこたどうでよかったわい。
何はともあれ、その真砂図書館のありがたさ。何十年も前に刊行され、その後絶版となっているものも少なからぬ各種研究書も多数並んでおり、町奉行関連に限っても、到底全部は覗いていられないほどの充実ぶり。いずれも詳密な典拠とともに、江戸期以来の「研究」結果を惜しみなく示してくれてるんですが、結局のところ、江戸中期以前の確実な記録は残っておらず、現在定説のようになっているのも、ほぼ例外なく18世紀以降の文書に依拠したもの、ってことが判明致しました次第。
例えば、享保2(1717)年、将軍宣下翌年の吉宗が、登用直後の町奉行大岡に編纂を命じたという法令集(を後に改訂した)『享保撰要類集』や、正保(寛永の次、1644~48年)から宝暦(1751~64年)までの町触をまとめたという、安永7(1778)年成立の『正宝事録』などにおける記載が、多少とも整合された最古の記録のようでして、初期の慶長だの寛永だののことを実体験として憶えている者などもちろん生き残っていよう筈もなく、これらの書物に依拠した近現代の研究書も、むしろ綿密であればあるほど何ら断定的なことは言っていない、ってことなんでした。
今日流布している定説、通説の類いに見られる齟齬は、その審らかならざるところを勝手に括って、と言うより、たまたま自分が接しただけの限られた情報のみを盲信し、それを安易に受売りする者が跡を絶たないための錯綜、ってところでしょうか。何を今さら、って気も致しますが。
かかる情報は、主として、やはり「地域資料」の欄にあった『江戸町人の研究』というちょっと大部の本(4巻目の前半が町奉行に特化した内容)から得たものでして、古書からの豪儀な引用が実に嬉しいところ。
どうせここまで脇道に入り込んじゃってますんで、そうした知見をいくつか記して今回の投稿を終え、次回、漸く②の図に対する言いがかりに移ろうかと。それでもまだ肝心の《中》=中町奉行所の位置を示すものではなかったりして。ひでえな。
えー、気を取り直しまして、「奉行所」としか今では殆ど呼ばれない町奉行の役屋敷、実際には「番所」と称するのが普通であった、とは既に申し上げておりますが、やはり「北町奉行所」よりは「北番所」とか「北の御番所」とか言うのが通例だったようで、同様に、懸案である(筈の)「中町奉行所」も、「中(の御)番所」とするほうが、時代劇の台詞としてもより現実的であり、かつ新鮮味も添えられよう、とは思ってんですよね。でもその「典拠」については、上述の『江戸町人の研究』でやっと知ることができたのでした。他にも「北組」だの「南組」だのという呼び方があったとは、既述の如くこの事典にも書かれているところですが、それについては結局釈然とはせぬまま。
とにかく、その『江戸町人の研究』によれば、幕府法令や、町方でも『正宝事録』に「御番所 町奉行勤役」との記載があるそうで、少なくとも18世紀後半には、町奉行所が一般に「御番所」と呼ばれていたことに間違いはないようです。
その呼称の起源については、明治40(1907)年以来、東京市とその後の東京都が継続して刊行している『東京市史稿』から、昭和初期のものと思われる引用文が記されておりまして(ただし本文中では『東京地理志料』となってますが、誤記でしょうか):
〈青山内藤の家譜に、騎士二十五騎歩卒百人預けらると見えしハ、所謂百人組なり。当時両氏ハ奉行にて百人組の頭を兼、其与力同心を以て城門を警衛し、其番所に於て傍ら地方の政務を沙汰せし故に、奉行所を番所と称することも由て起りしといふ)
とのこと。城の警備隊長が市政長官を兼務していた、ってところでしょうかね。「奉行所」も、当初は江戸城内にあったということになりますが、「あり得べきことである」とは引用者の記述。奉行がそれですから、部下もまた、軍人としての与力(騎士)、同心(歩卒)がそのまま行政官、警察官をも兼ね、それがその後、専ら後者の職務に特化するようになった、って筋書きのようです。
あれ? この青山と内藤って、「(初代?)関東総奉行」たる板倉・彦坂の後任だろうから、家康の領地全般における司法・行政を任されていたものと思われ、江戸はその管轄の一部に過ぎなかった、ってことになりそうですね。城門警備の仕事とはどっちが主だったのかはわかりませんけど、後の加役、火盗改の鬼平も、建前は先手組頭という軍人だったのが、なんせ戦争なんか全然なかったから、実際には警察業務のほうが主体だったように、名目上は警備隊のほうが主眼だったりして。でも関ヶ原の直後ではあり、未だ広義の戦国時代ではあったということか。ま、どうせわかるわきゃありませんけどね。
「組」というのは、戦国期からの軍事用語で、幕末の最終段階で突然「隊」という近代語に言い換えられたものなんですが、隊長は「組頭」であって、「組奉行」とは聞いたことがありません。前回言及した正体不明のウェブ記事の言いようだと、むしろ「北町/南町+奉行」に対する「北組/南組+奉行」のようでもあり、前者が明らかな誤解釈であるのは以前申し上げたとおり。飽くまで「北/南+町奉行」ですし、その記事が主張するように、青山・内藤の後任たる土屋・米津が「南北組奉行」に任命されたのだとすれば、その2人こそ軍務から切り離された市政長官の初代ということになろうから、軍隊について用いられる「組」という語はやはり間尺に合わないような。どちらかと言えば、警備隊員が片手間(?)に役人も兼ねていた青山・内藤時代のほうが、その意味での「組」にはもっと似合うような。
この青山・内藤の次代(とされる)土屋・米津が「南北町奉行」の嚆矢、すなわち江戸の市政に携る最初の専任者だったのだとすれば、「関東総奉行」たる前2者が慶長11(1606)年まで在任し、後者の2人がその2年前、慶長9年に就任ってのも間違いではなく、単に職務の一部が分担され、別々の「奉行」として2つの役職が併存し、都合4人いた時期が2年ほどあった、ってことで間尺も合いますね。そんなこと、こっちが推し量る義理なんかないんだけれど。
ついでのことに、「奉行」が多用されるようになったのは鎌倉時代のようで、元来は「上を奉じて下に行う」こと、つまりは上意下達の意だったのが、任命された職務を執行すること、って意味で用いられ、室町の頃までは「奉行人」というのが役職名だった模様。
さらに、奉行でも何でも、各職務の最高責任者が複数設けられていたのは、德川体制に限ったことではなく、古代からの制度だか因襲だか、とにかく大抵2人なんですよね。関東総奉行の場合は管轄地域が広かった故の分担制だったのか、あるいは既に交替制だったのか、それはわかりませんけど、どうもこれ、いざとなったら責任の所在を曖昧にしようてえ日本固有の姑息な手、おっと古来の奥ゆかしい伝統だったてえ気配も漂います。建前としては、権力が1人に集中せず、合議制による公正を期すため、ってことにはなってるようですが。
いかん、また不毛なことを考えてしまった。
それにしても、「(御)番所」、すなわち「奉行所」を指して「北組」とか「南組」とか言っていたのがいつのことなのかも判然とはしないし(『江戸町人の研究』の索引にそういう語句はありません)、「番所」が城門警衛という当初の職務の名残りだとしても、「(南北)組奉行」はやっぱり妙な感じではあります。それだと「北組奉行所」というような言い方も成り立ちそうですが、それ、言い換えれば「北町奉行所奉行所」っていう同語反復になりそう。
ま、何ら典拠も示されてはおらず、取り合うだけ無駄なのかも知れませんけど。
さて、この『東京市史稿』の同じ記事からは、この最初期における町奉行所の位置についてもかなり綿密な考証が引用されておりまして、慶長から寛永までの古地図に記された「内藤修理」、「青山播磨守」、米津田政ノ子「米津内蔵介」、「土屋権右衛門」、「島田弾正」といった歴代町奉行(やその息子)の各屋敷の所在地から
〈此等ハ、何レも其家二執務シ、未タ一定ノ役宅有ル二至ラサル者ナル可シ〉
と推論しており、さらに、呉服橋の島田の屋敷がそのまま〈南番所 後北。〉として後継者の堀式部の役宅とされるとともに、町奉行ではなかった常盤橋の牧野内匠の屋敷が、堀と同時に町奉行となった加々爪民部の役宅、〈即チ北番所 後南。〉とされたのが南北町奉行所の初めであり、それが〈寛永九年九月頃ナル可キ……〉と結論づけているという次第。
自分が古地図を見比べて考えたことも、あながち見当違いではなかったってことで。それでも、「米津/米木津」問題には触れず、奉行だった親父の屋敷も息子と同じだったって決めつけてたり(あたしも十中八九そうだとは思うけど、肝心の慶長期の絵図が見られないもんで)、土屋は「権右衛門」になってたり(既述のとおり、絵図の表記を見る限り「左」ですが)、というように、ごく綿密であるとは言え、もうちょっと確かめて貰いたかった、ってところもなくはないんですがね。
いずれにせよ、「南北」のみならず、「町奉行」という呼称あるいは単独の役職自体が、寛永頃からのものなのではあろうとは想察致す仕儀にて。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
話が大きく逸れたままここまで来ちゃいましたが、この①の図って、本題たる中町奉行所(その話自体がほんとは寄り道だったんだけど)とは関係ないのに、こんなにも長ったらしい能書きを垂れ流してしまい、まことに忸怩の限り(ウソばっかり)。だって、やっぱりヘンなんだもん、この事典。
ほんとは、単に常盤橋と呉服橋の両役宅を示すのに、なんでそういうのがまだなかった時期の古地図に「よる」のよ、ってだけの不満だったのに、その古地図をウェブで見つけちゃったがために、それに付随して次々と気に食わねえところが気になり出して……って経緯だったんでした。
いろいろ確かめれば確かめるほど深みにはまり、毎回懲りもせず溺れちゃってもう。こいつぁしかたがねえや、ってことで、そこはひとつ。
では次回、やっとのことで二番目の図、②について。こんだできるだけ余計なことは考えないようにしよう、とは思っとります。
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