前回は成行きでオフコースの『さよなら』って曲を例に、歌メロにおける無声母音の扱いについて言及したのでしたが、どうやらこの小田和正氏、条件が許す限りは、それこそ「隙あらば」といった風情で、無声母音の歌唱は発話時の法則に準ずるという(無自覚の?)自己規範をお持ちのご様子。『言葉にできない』って曲でも、後半で二度繰り返される〈嬉しくて〉の[シ]をしっかり無声化して歌っとりました。この歌詞の場合は、大抵の歌手なら迷わず有声で歌うんじゃないか、とも思われる事例なんです。
2018年3月28日水曜日
無声母音と歌メロ(5)
再三再四という様相を呈しておりますが、なんとか主旨である「歌メロにおける無声母音問題」(毎回言い方変ってる気もしますけど)に回帰。逸脱を重ねるのは無意識の逃避行動なんですかね、ってひとに訊いたってしょうがないのは百も承知二百も合点。
さて、前回までは、いくらアクセントに拘ったところで、無声母音という、東京語には不可欠の発音がなくなっちゃうのはどうしようもねえじゃねえか、っていう難癖が眼目だったわけですが、実はそれ、必ずしも歌メロなら全部諦めなきゃならないってこともないんですよね。って、相変らず肝心なことを後から引っ張り出してくるという遅延技法(?)。まあそこはどうぞお許しくだされたく。
さて、前回までは、いくらアクセントに拘ったところで、無声母音という、東京語には不可欠の発音がなくなっちゃうのはどうしようもねえじゃねえか、っていう難癖が眼目だったわけですが、実はそれ、必ずしも歌メロなら全部諦めなきゃならないってこともないんですよね。って、相変らず肝心なことを後から引っ張り出してくるという遅延技法(?)。まあそこはどうぞお許しくだされたく。
2018年3月27日火曜日
無声母音と歌メロ(4)
さて、漸く本来の主旨たる「歌メロにおける無声母音問題」に早速とりかかろうと思います。当初からその話がしたくて書き始めたのでしたが、やっとのことでそこにたどり着いたという心地。おっと、漸く片足の先を踏み入れた程度で、まだたどり着いたなどとは到底言い難いところではありますが。
余計な言いわけは切り上げ、本題に入ると致しやしょう。まずは既にたびたび言及しております、「言葉を大切に」して伝統的東京アクセントに沿ったメロディーを付した(と言い張る)山田耕筰の『赤とんぼ』、その一番の歌詞の末尾、〈日か〉の「日」、すなわち[ヒ]が、後続の[カ]の前では自動的に母音の無声化を生じ、発話においてはピッチの高低が判別不能の「囁き」にならずにはいられないのが「正しい」東京発音なるに、アクセントの高低には無益極まる拘りを誇る山田先生、この「日」が決然たる有声音で、しかもちょいと間延びした歌メロになっちゃってるってことについてはとんと無頓着、ってことに対する義憤、じゃねえや、冷笑(てえか言いがかり)というのが、実はこの1年あまり言いそびれていた与太話の眼目だったのでした。……って、相変らず文が長くて恐縮。一種の貧乏性が発現したるものと思召されたし。
余計な言いわけは切り上げ、本題に入ると致しやしょう。まずは既にたびたび言及しております、「言葉を大切に」して伝統的東京アクセントに沿ったメロディーを付した(と言い張る)山田耕筰の『赤とんぼ』、その一番の歌詞の末尾、〈日か〉の「日」、すなわち[ヒ]が、後続の[カ]の前では自動的に母音の無声化を生じ、発話においてはピッチの高低が判別不能の「囁き」にならずにはいられないのが「正しい」東京発音なるに、アクセントの高低には無益極まる拘りを誇る山田先生、この「日」が決然たる有声音で、しかもちょいと間延びした歌メロになっちゃってるってことについてはとんと無頓着、ってことに対する義憤、じゃねえや、冷笑(てえか言いがかり)というのが、実はこの1年あまり言いそびれていた与太話の眼目だったのでした。……って、相変らず文が長くて恐縮。一種の貧乏性が発現したるものと思召されたし。
無声母音と歌メロ(3)
前回、説明を試みて結局また脱線しちゃった無声母音の話です。自分の名前[キチロー]の[キ]を例にとったんでしたが、声帯の振動を伴わない無声音である(有声≒濁音、無声≒清音……って感じ)カ行だのサ行だのタ行だの……の父音(頭子音)に挟まれた狭(せま)母音たる[イ]と[ウ]が、前後の影響により、概ね本州の西半分と四国を除く地域では自動的に無声化する、ってことなのでした。
その話から、いつものようについ枝葉末節に分け入ってしまい、本来なら無関係の英語の音韻談義に堕してしまったという仕儀だったわけですが、やっとのことで国語におけるその無声母音問題に立ち至ることができる(かも知れない)という運びに。
その話から、いつものようについ枝葉末節に分け入ってしまい、本来なら無関係の英語の音韻談義に堕してしまったという仕儀だったわけですが、やっとのことで国語におけるその無声母音問題に立ち至ることができる(かも知れない)という運びに。
2018年3月26日月曜日
無声母音と歌メロ(2)
早速ながら、件の「無声母音の欠落」について。あ、でもまずはその「無声母音」自体が何物なのかをざっと語っておきたくなりました。
……とは言ったものの、いったいどう語りゃいいんだか。とりあえず例を挙げれば、あたしの名前[キチロー]の第1音節[キ]の母音[イ]がそれに該当します。カ行の父音(頭子音)もタ行のそれも、無声音(声帯が振動しない息だけの音)で、それらに挟まれた母音の[イ]が、東京(と言うより、中部から中国、四国を除いた、東日本や九州一帯の)発音では、自動的に無声化する(つまり前後の父音と同様に息だけとなる)っていう現象なんです。
……とは言ったものの、いったいどう語りゃいいんだか。とりあえず例を挙げれば、あたしの名前[キチロー]の第1音節[キ]の母音[イ]がそれに該当します。カ行の父音(頭子音)もタ行のそれも、無声音(声帯が振動しない息だけの音)で、それらに挟まれた母音の[イ]が、東京(と言うより、中部から中国、四国を除いた、東日本や九州一帯の)発音では、自動的に無声化する(つまり前後の父音と同様に息だけとなる)っていう現象なんです。
2018年3月25日日曜日
無声母音と歌メロ(1)
前回は、今からだともう1年数ヶ月前に半端なところで継続を遺棄し、そのまま途絶していた「伝統的東京語と歌メロの関係についての与太話」の、半端な中断部分で終っておりました。その話を約1年後に再開……したところから以下に再録して参ろうかと。
そもそも書き始めたのは2016年の秋だったものの、11月末には早速趣旨が逸れ、結局次々と逸脱を重ねたまま放棄したのが2017年春。下記は、同年12月、気紛れに書き始めたその続きという次第。そろそろやっとかないとそのまま有耶無耶になってしまうような気がしたもので。ほっといたからって誰が困るわけでもないのは承知ながら、結局自分が落ち着かなかったんでした。中途半端のままじゃ死んでも死に切れない、なんてこた金輪際ありませんけど。ひょっとすると無意識に遠からぬ死を予感してたりして。まあいいか。
そもそも書き始めたのは2016年の秋だったものの、11月末には早速趣旨が逸れ、結局次々と逸脱を重ねたまま放棄したのが2017年春。下記は、同年12月、気紛れに書き始めたその続きという次第。そろそろやっとかないとそのまま有耶無耶になってしまうような気がしたもので。ほっといたからって誰が困るわけでもないのは承知ながら、結局自分が落ち着かなかったんでした。中途半端のままじゃ死んでも死に切れない、なんてこた金輪際ありませんけど。ひょっとすると無意識に遠からぬ死を予感してたりして。まあいいか。
無声母音はどうする?(3)
さてその、田村正和をも凌ぐ無声母音の欠落ぶりを誇る人物、誰かと申しますと、瀬戸内海は小豆島(香川県)の出身、石倉三郎という御仁。何ら勿体をつけるつもりはなかったんですが、前回もまた長くなっちゃって、あのまま続けてたら区切りがつけられそうもなかったもんでつい。すみません。
ともあれこの石倉氏、中学で大阪へ転居、二十歳の頃には東京へ引っ越したそうなので、まあ普通の地方出身東京在住者なんですよね。それでどうしてあの訛りがとれないのか。無声母音の欠落に関しては京阪なんかより小豆島のほうがよほど根強い、ってことでしょうか。あるいは四国全般の傾向? 鼻濁音同様、いずれにしても京の都なんかよりよっぽど古い音韻を遺しているのは間違いないでしょうけれど。日本中の田舎の言葉に通底する事象ではありますが。
ともあれこの石倉氏、中学で大阪へ転居、二十歳の頃には東京へ引っ越したそうなので、まあ普通の地方出身東京在住者なんですよね。それでどうしてあの訛りがとれないのか。無声母音の欠落に関しては京阪なんかより小豆島のほうがよほど根強い、ってことでしょうか。あるいは四国全般の傾向? 鼻濁音同様、いずれにしても京の都なんかよりよっぽど古い音韻を遺しているのは間違いないでしょうけれど。日本中の田舎の言葉に通底する事象ではありますが。
無声母音はどうする?(2)
アクセントと歌メロの食い違いだとか、鼻濁音の有無だとか、俺に言わせりゃ「だってあんたらみんな歌聴いて全部意味わかってんでしょうが」っていう、実に些末な事柄を大袈裟に嘆いたり糾弾したりする連中が、誰ひとりとして言及すらしない(飽くまであたしの知る限りってことですが)、「無声母音の無視」という由々しき(かな?)問題につきまして、漸く申し述べることができそうな模様です。ここまでズレ込んだのはすべて自業自得。長くてほんとにすみません。
アクセント云々については、歌詞、メロディーともに、あまりにも極端な制約を受容しない限り(あたしゃごめんだね)到底解消し得ないのに対し、鼻濁音問題なんざ、単にそれを認識しさえすれば一挙に解決可能。いつまでも放置状態なのは、そもそもその発音の欠けた人には肝心のその認識自体が至難であり、当然その必要性を感ずることすらできない、という実情によるものでしょう(ほんとに?)。
アクセント云々については、歌詞、メロディーともに、あまりにも極端な制約を受容しない限り(あたしゃごめんだね)到底解消し得ないのに対し、鼻濁音問題なんざ、単にそれを認識しさえすれば一挙に解決可能。いつまでも放置状態なのは、そもそもその発音の欠けた人には肝心のその認識自体が至難であり、当然その必要性を感ずることすらできない、という実情によるものでしょう(ほんとに?)。
2018年3月23日金曜日
無声母音はどうする?(1)
アカトンボあるいはアクセント問題から、実はそれより気障りな無声母音の欠落という現象についての、またしても勝手な御託へと、ちょいと移行します。
「準」標準国語、いわゆる共通語の母体とされる東京方言(の一部)に顕著な音韻上の特徴として、最初の2つの音節は(1音節語の場合は下接語との組合せにおいて)必ずピッチが違い、「高→低」か「低→高」のいずれかしかない、ということは既に申し上げました。前者では当該語の音節数に関わりなく、2音節目で下がったピッチは二度と上がることがないのに対し、後者の場合は単語内の音節数や下接語との関係により、高いままかやがて下がるか、また下がるとすればどこでそうなるか、という区分がある……とは言え、結局は全部で4種類しかアクセントの型がない、ということも既述のとおり。
で、そうした高低のアクセントが、歌詞としてメロディーを付された場合にも保持されねばならぬとし、そうした作曲法の模範例として山田耕筰による『赤とんぼ』を称揚する者が昔から跡を絶たないものの、現実には音楽的音程と言語的高低アクセントはまったくの別物であり、かかる「理想」も所詮は宛然幻想。どう足掻いたところでそれに徹するのは無理、ということを、ほかならぬ山田自身が、ほかならぬ『赤とんぼ』の旋律によって明示しているではないか、という論考(難癖)が、前回までの主旨でございました。
「準」標準国語、いわゆる共通語の母体とされる東京方言(の一部)に顕著な音韻上の特徴として、最初の2つの音節は(1音節語の場合は下接語との組合せにおいて)必ずピッチが違い、「高→低」か「低→高」のいずれかしかない、ということは既に申し上げました。前者では当該語の音節数に関わりなく、2音節目で下がったピッチは二度と上がることがないのに対し、後者の場合は単語内の音節数や下接語との関係により、高いままかやがて下がるか、また下がるとすればどこでそうなるか、という区分がある……とは言え、結局は全部で4種類しかアクセントの型がない、ということも既述のとおり。
で、そうした高低のアクセントが、歌詞としてメロディーを付された場合にも保持されねばならぬとし、そうした作曲法の模範例として山田耕筰による『赤とんぼ』を称揚する者が昔から跡を絶たないものの、現実には音楽的音程と言語的高低アクセントはまったくの別物であり、かかる「理想」も所詮は宛然幻想。どう足掻いたところでそれに徹するのは無理、ということを、ほかならぬ山田自身が、ほかならぬ『赤とんぼ』の旋律によって明示しているではないか、という論考(難癖)が、前回までの主旨でございました。
2018年3月22日木曜日
アカトンボのアクセントって?(4)
さて、「頭高型アカトンボ」に正しくメロディーを施した山田耕筰先生の偉業を讃え、歌メロはすべからくこうあるべし、てな空疎極まる与太話を、宛も自らの知見ででもあるかの如く吹聴し(ほんとか?)、それに違背するメロディーは断じて許すまじ、とでも言い張るが如き連中に対する難癖の続きです。
山田と同様、東京生れ(現渋谷区育ち)ながら、世代はかなり下る團伊玖磨(それでも私の亡父より1つ上で、生きていればとっくに90歳超――曲は山田のよりずっと好き)が、12歳の時分から個人的な師匠であったという山田に、この「赤とんぼ」という歌詞に付されたメロディーについて質問した、って話があります。発話時の高低アクセントは是非とも歌メロに反映されねばならぬ、という山田の拘りは既に知っていたので、[ア]が[カ]より高いのは妙ではないか、という甚だ妥当なる疑義。
山田と同様、東京生れ(現渋谷区育ち)ながら、世代はかなり下る團伊玖磨(それでも私の亡父より1つ上で、生きていればとっくに90歳超――曲は山田のよりずっと好き)が、12歳の時分から個人的な師匠であったという山田に、この「赤とんぼ」という歌詞に付されたメロディーについて質問した、って話があります。発話時の高低アクセントは是非とも歌メロに反映されねばならぬ、という山田の拘りは既に知っていたので、[ア]が[カ]より高いのは妙ではないか、という甚だ妥当なる疑義。
アカトンボのアクセントって?(3)
アクセントの相違は聴解の妨げになどならず、したがって歌メロの高低の正否を論うのは不毛である、ってな屁理屈を書き連ねて参ったわけですが、ここでちょいと気になることを思い出してしまいましたので、それについて少々。
かかる事情は日本語にこそ該当するものの、言語によっては、発音とともに抑揚によっても意味の違いが示されたりするんですよね。英語も、かつては英米人どうし話が通じなかったりもしたそうですから、そうした要素も皆無ではなかったと思われますが、今ではそれこそ東京弁と関西弁の関係のようなもので、お互い何を言っているのか理解不能といういことはないでしょう(ただし、それぞれの、特に英国の田舎の訛り丸出しだと、日本語と同様わけわかんないこともありましょうが)。
かかる事情は日本語にこそ該当するものの、言語によっては、発音とともに抑揚によっても意味の違いが示されたりするんですよね。英語も、かつては英米人どうし話が通じなかったりもしたそうですから、そうした要素も皆無ではなかったと思われますが、今ではそれこそ東京弁と関西弁の関係のようなもので、お互い何を言っているのか理解不能といういことはないでしょう(ただし、それぞれの、特に英国の田舎の訛り丸出しだと、日本語と同様わけわかんないこともありましょうが)。
アカトンボのアクセントって?(2)
前回の続きです。藤山一郎については、たかだか「ホタル」の「ホ」が「タル」より低いメロディーが気に食わなかった(らしい)ってだけなので(山田耕筰よりよほどうるさかったとの指摘もありますが)、もういいでしょう(エラそうに)。以後は専ら山田耕筰、あるいはそのトンチンカンな信奉者の傲慢または誤謬について、極力それを上回る傲慢さでケチをつけてやろうと目論んでおります。不毛の極み。先刻承知。
「傲慢」というのは、標準語と同一視される「一部の」東京方言のみが許容し得る正当な国語である、とでも言うが如きそのエラそうな態度に対するもので(山田がそう明言したとも思われぬし、そもそも何者が「許容」したりしなかったりできるってんだか)、「誤謬」としたのは、前回述べた、音楽的なピッチと言語音のアクセントは到底「一致」などし得ない、という点に加え、例えば、現にこれだけ地方によるアクセントの差異が甚だしいのに、それによって同一言語としての理解が不能になるなどということは皆無に等しい(文脈、状況というものがありますでのう)、てなことすらわからねえのか、という気持ちの表れでございます。
「傲慢」というのは、標準語と同一視される「一部の」東京方言のみが許容し得る正当な国語である、とでも言うが如きそのエラそうな態度に対するもので(山田がそう明言したとも思われぬし、そもそも何者が「許容」したりしなかったりできるってんだか)、「誤謬」としたのは、前回述べた、音楽的なピッチと言語音のアクセントは到底「一致」などし得ない、という点に加え、例えば、現にこれだけ地方によるアクセントの差異が甚だしいのに、それによって同一言語としての理解が不能になるなどということは皆無に等しい(文脈、状況というものがありますでのう)、てなことすらわからねえのか、という気持ちの表れでございます。
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