2018年4月30日月曜日

町奉行あれこれ(30)

〔承前〕どうでもいいついでってことで、その話(「ホリヤマト」とは?)についてまたひとくさり。

この元文5(1740)年からは既に30年以上前になりますが、宝永4(1707)年に常盤橋の屋敷が焼けて、例の高倉屋敷での仮営業の後に数寄屋橋へ松野壱岐守が引っ越すまで、その数寄屋橋内に住んでた堀大和守親賢(ちかかた)って殿様については、その高倉屋敷の話のついでに言及致しました。「牛之助騒動」という陰惨な事件の当事者でもありますが、その人の次男で、2代あとの当主がこの「ホリヤマト」、堀大和守親蔵(ちかただ)なんでした。この18年前、享保7(1722)年の 『新板江戸大繪圖(コマ番号4/5または5/5参照)』の同所に「ホリワカサ」と記されていたのは、先代だった亡兄、すなわち親賢氏の長男、親庸(ちかのぶ)氏だったということになります。数寄屋橋からここに移ってたんですね、堀さんちは。

2018年4月29日日曜日

町奉行あれこれ(29)

前回まで、『図説 江戸町奉行所事典』が掲げる町奉行所移転の推移を示す5図中、3つについて長々と文句を言い募って参ったわけですが、残る2つが下記の2例ということに。以前にも申しましたが、〈 〉内は各図に付された説明句であり、また丸数字は拙が勝手に付したものです。

④〈元文年間江戸切絵図による南・北両町奉行所の位置〉
⑤〈天保版江戸切絵図による文化三年以後の南・北両町奉行所〉
 
                  
 
この事典で自分が最も撞着を感じたのが(初めは立読みなのでごく一部しか見ちゃいなかったんですけど)「中町奉行(所)」というものについての説明で、それこそがこの長大かつ不毛なる駄文を書き綴るきっかけとはなったのでした。

2018年4月28日土曜日

町奉行あれこれ(28)

前回に引続き「国会デジコレ」所掲の絵図におけるその後の町奉行の表記例を以下に:

●正徳2(1712)年発行 分間江戸大繪圖(コマ番号4/5をご参照のほどを);萬屋清兵衛版[正徳二壬辰歳……との記載あり]

 数寄屋橋内  松野壹岐
 鍛冶橋内   坪内能登
 同呉服橋寄り 丹羽遠江

==================

次も同年の絵図ですが:

分道江戸大繪圖・乾(コマ番号3/3);山口屋須藤權兵衛版[正徳二壬辰年]
 数寄屋橋内  御奉行 松野イキノカミ
 鍛冶橋内   町御奉行 ツホウチノトノカミ
 同呉服橋寄り 町御奉行 ニハ遠江守(相当なくずし字)

2018年4月27日金曜日

町奉行あれこれ(27)

続きです。

まず『国立国会図書館デジタルコレクション』所掲の『御府内往還其外沿革図書』を見ると、この臨時高倉屋敷の期間については特に記述がありませんでした。図示されているのも、常盤橋内が「町奉行川口摂津守御役屋敷」と記された「元禄十一寅之形コマ番号36/130参照」の次はいきなり9年後の「宝永六巳年之形コマ番号37/130右頁で、その跡地は「本多伊豫守」、そのまた次の図、「享保二寅年之形同左頁だとそれが「町奉行中山出雲守御役屋敷」になってるって寸法。でもそれはまだ先の話。

八代洲河岸の高倉屋敷については、「延寶年中之頃ヨリ元禄年中之頃之形コマ番号73/130」および「元禄十四巳年之形コマ番号74/130に「髙倉屋敷」の表示はあるものの、約70年後の「明和九艮年之形コマ番号55/130にはありません。やはりどこかへ移転していたものでしょうか。


2018年4月26日木曜日

町奉行あれこれ(26)

「国会デジコレ」(『国立国会図書館デジタルコレクション』っていうサイト名を勝手に短縮)で見つけた「中番所時代」前後の絵図を見ていて明らかになったことどもを、相も変らず漫然と書き連ねることに致します。出版年度は飛び飛びで、かつ同じ年の絵図が複数掲示されていたりもするのですが、その中からいくつか任意に選び、それぞれにおける各奉行(所)の表記を以下に示してこうてえ魂胆。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

まずは、《中》〔中(の御)番所=中町奉行所……を勝手に略記〕が現れる前段階、寛永前期(1630年代)から数十年間、《北》こと常盤橋番所と《南》こと呉服橋番所が、道三堀に架かる銭瓶橋の両橋詰付近に、言わば隣り合っていた状態から、元禄11(1688)年、「勅額火事」の影響で、呉服橋の《南》が鍛冶橋内の北側区画、それまで保科邸と吉良邸が南北に隣接していた敷地に越した後の様子を示す絵図から(長くてすみません):

●元禄12(1699)年発行 江戸大絵図(コマ番号2/3参照)(仮称? 書誌情報では「江戸大絵図元禄十二年」);板屋弥兵衛版
 鍛冶橋内     町御奉行 松前イツ
 呉服橋内(南側) キラカウツケ
 常盤橋内     保田エチゼン 町御奉行ヤシキ
*南→北の順です。色付きの文言は町奉行以外の参考情報……のつもり。以下同。

2018年4月25日水曜日

町奉行あれこれ(25)

さて、……という書き出しも使い古しでちょいと気は引けますが、ともかくも言いがかりの続きを。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

前回さんざん文句をつけた③の図ってのは、〈享保二年版分道江戸大絵図による南・中・北町奉行所の位置〉っていうやつなんでした。つまり図中の《北》(本文では《中》)が鍛冶橋門内(の呉服橋方向へ少し寄った区画)から常盤橋門内に移転した年の絵図に依拠したイラスト。でも示されたそれぞれの位置は、本文とは名称が食い違っている上、その移転前の配置、っていうシュールな図版。
 
 

2018年4月24日火曜日

町奉行あれこれ(24)

やっとのことで、長らく懸案であった「中番所」(いわゆる中町奉行所)新設以後の状況を示した図③について開陳。より現実的には、町奉行を1人増やして3交替制としたのに伴い、その3人目、新規町奉行の役屋敷を便宜上《中》と呼んだだけ、と言うべきかとは思いますが、まあそれはさておき――
 
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

③〈享保二年版分道江戸大絵図による南・中・北町奉行所の位置〉

 
……というのがこの図の題目、と言うか説明句。あ、遅れ馳せながら、①とか②とかいう丸数字は私が勝手に付したもので、実際は各図の右に縦組み(5番目だけは上に横組み)で、これまた私が勝手に〈 〉で挟んだ説明句が添えられているという体ですね。
 

2018年4月23日月曜日

町奉行あれこれ(23)

漸くここに至って、本来の主題であった筈の『図説 江戸町奉行所事典』、その「江戸町奉行所の位置」という項に示された5図中、2番目の②に対する難癖に立ち返ることができそうです。毎度ダラダラと、ほんとにすみません。

元禄11(1698)年に《南》(「南番所」、いわゆる「南町奉行所」のことを勝手にこう表記しとります)が呉服橋から鍛冶橋に移転した後の様子を示す筈の②図が依拠する(ったって記載内容ではなく図の形だけなんですけどね)元禄「6」年版『江戸図正方鑑』(なんで5年前のやつに「よる」んだか)と、同一の作成者、版元、出版年の『江戸宝鑑の圖大全』から、「さらなる蛇足情報を示そう」としたところ、その蛇足がまた到底蛇足などと名乗るもおこがましき冗長ぶりを呈してしまった、という恐るべき仕儀とは成り果てたのでしたが、やっとのことで何とか気を取り直したてえ塩梅です。

2018年4月22日日曜日

町奉行あれこれ(22)

またぞろ随分と余談が長引いちゃいました。いよいよ当面の本題に戻……るつもりだったんですが(「本題」なんてもんがあるのかどうかはさておき)、その後またも真砂図書館で余計なもんを覗いちゃったために、まずそれについて言っときたくなりまして。

前回の話の続き、ってより駄目押しみたようなもんです。「駄目」って言うならこれ全体がそうなんですけど、そこはひとつ。いずれにしろ、本旨たる②の図についてはまたも少し先延ばしってことで。
 
                  

さて、またいつもの図書館行ったのは、仕事絡みで別の調べ物があったからなんですが、つい思い出したように、てえか実際思い出したんだけど、ついでに赤穂の浅野内匠頭についてもあれを覗いとこうか、ってんで、例の『寛政重脩諸家譜』を開いたのでした。

2018年4月21日土曜日

町奉行あれこれ(21)

前回予告した永井氏受難の話。

まずこの元禄6(1693)年当時、土佐藩邸の隣に住んでた永井靭負って人自身は、ふつう「能登守直圓(なおみつ)」と記される1万石の小大名なんですが、まだ「靭負」って表記だということは、名乗(なのり)もその前の直好(なおよし)または直員(なおかず)だったんじゃないかと思われます。後者のほうがより古く、その実名(じつみょう)を名乗っていた時分の通称は「大善」だったかも。幼名は「萬之丞」……などといった無益な情報も、悉く例の『寛政重脩諸家譜』からの受売りです。因みに、いつも図書館で覗いてんのは『新訂 寛政重修諸家譜』というやつで、「脩」の字が「修」という表記。

2018年4月20日金曜日

町奉行あれこれ(20)

『図説 江戸町奉行所事典』における、奉行所移転の経緯を示した(筈の)5つの図のうち、漸くその2つめについて。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 

②〈元禄六年版江戸正方鑑による南北両町奉行所の位置〉

 
 
元禄11(1698)年に、呉服橋の《南》[=南町奉行所=南(の御)番所]が、より南の鍛冶橋内、吉良と保科の屋敷跡に移転した後の図、ってことです。前回までああだこうだ言ってた①の図に示された呉服橋内の《南》にとっては南隣となる位置、道三堀からは屋敷1つ分を隔てた、同じ区画の南側に、〈元禄十一年までそして文化三年より北町奉行所〉との文言が記され、鍛冶橋門内北側の区画には、〈元禄十一年より〉という文句を添えて「南町奉行所」と表示されています。

2018年4月19日木曜日

町奉行あれこれ(19)

〔承前〕何はともあれ、互いに齟齬を含む各種ウェブサイトの記事同様、やはり一部の記載事項が他と食い違うこの『図説 江戸町奉行所事典』の言い草も、到底全面的に信用し得るものではないのですが、とりあえず各者共通の情報としては、最初1人だけだった江戸の町奉行がやがて2人体制となり、その役屋敷の所在地が固定化されるに及んで、それぞれ「北町奉行(所)」、「南町奉行(所)」と称されるに至った、ということにはなるようです。

しかし、この事典の「町奉行歴任表」では、早くも家康入国の天正18(1590)年に、板倉四郎右衛門勝重と彦坂小刑部元成が(同時に?)就任し、かつ10年を経た慶長6(1601)年、すなわち関ヶ原の翌年に後任2人が(やはり同時に?)就役したかのようになっており、まだ江戸時代にもなっていない最初期から江戸の町奉行は2人だったとしか思われぬ記述。

2018年4月18日水曜日

町奉行あれこれ(18)

さて、これまでも既にいろいろと言いがかりをつけて参りましたが、『図説 江戸町奉行所事典』における「江戸町奉行所の位置」という項に掲げられた5つの図について、改めて説明(難癖)を施すことと致します。〈 〉内が各図に付された説明句(タイトル?)でございます……って、それ、前々回断ってんですけど、結局また逸脱が過ぎて、今回漸くちゃんと言及することに。毎度恐縮の限り。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

①〈寛永九年版武州豊嶋江戸庄図による南北両町奉行所の位置〉

 
『図説 江戸の司法警察事典』(1980年刊)より

2018年4月17日火曜日

町奉行あれこれ(17)

卒爾ながら、ちょいと中間報告の如きものを。
 
                  

誰がこんなもん読むかよ、と自分でも思いつつ、どちらかと言うと、自分が調べたことやそれについて考えたことを記録する目的で、つまり自分自身のためにこの一連の投稿を続けてるってのが実情に近いようなところではあるのでした。

で、2016年秋(だったかな)より、飽くことなき迷走を重ねながら連綿と綴って参りましたこの長駄文、「東京語の音韻について」(という話題」からさらに派生した「無声母音欠落の例」)という当初の趣旨からは逸脱したまま、当面は「中町奉行所」、およびそれとの関連で、「坂部三十郎邸」についての、実に以てまったくどうでもいい話を書き散らしているのはご承知のとおり。

2018年4月16日月曜日

町奉行あれこれ(16)

さて、件の『図説 江戸町奉行所事典』ですが、各奉行所(各町奉行の役屋敷)の位置関係について、わざわざ自作の図を5つも添えてその遷移を説いていながら、やはり中町奉行所設置後の混乱状態についての記述がヘン、ってより、その記述自体が混乱してたからこそ、こっちだってわけがわかんなくなっちまうんじゃねえか、っていう悪態の続きです。

文章部分の説明によれば、まるでその当時、北から順に「中」「南」「北」となってしまっていたのを、「中」の廃止を機に逆転していた南北の呼称を改めた、ってことになってるのは既述のとおりなんですが、そうなると北だの南だのってのも俗称に過ぎなかったわけではなく、やはり正式名称で、それが所在地の移動に伴って混乱していたのを、だいぶ後になってから修正した、ってことになるではありませぬか。え? そうだったの?って思いかけちゃったけど、やっぱり到底首肯は致し兼ねます。

2018年4月15日日曜日

町奉行あれこれ(15)

「中町奉行所」と呼ばれるものについての繰り言の続きです。まずはこの『図説 江戸町奉行所事典』による奉行所移転の推移に対する説明を、ざっと以下にまとめてみることに致します。
 
➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢
 
① 江戸初期の寛永期以来、常盤橋門内と呉服橋門内(銭瓶橋の北詰と南詰)にそれぞれ北町奉行所と南町奉行所があったのだが、元禄11(1698)年に後者が1つ南の鍛冶橋門内北側へ、吉良(東)・保科(西)の屋敷を上地して移転〔東西ではなく、正確には北が吉良、南が保科の模様〕
 
1980年刊行の旧版『図説 江戸の司法警察事典』より(以下同)

2018年4月14日土曜日

町奉行あれこれ(14)

では「見附」について。

さてその「御門」の形状ですが、警備のための見張所というにとどまらず、結局はその必要もないまま明治に至ったとは言え、攻め入る敵の進行を滞らせるための、「枡形門(ますがたもん)」という軍事施設の体とはなっていたのでした。

濠に架けられた橋の内側、つまり城側の橋詰に、大抵は2つの門が、石垣を巡らした方形の空間、すなわち「枡形」を挟んで直角に、あるいはお互い斜向いとなるように設けられ、否応なく進路が曲げられるという仕組み。寄せ手がまごついてる間にやっつけようてえ工夫です。例えば、桜田門を警視庁方面から入ると、すぐに右へ曲がり、さらに大きな門を通って皇居外苑に至る、という具合になってますけど、それが枡形門の例。
 

2018年4月13日金曜日

町奉行あれこれ(13)

町奉行役宅についての駄文を続けます。まずは、思い出したように何ですが、橋の「門内」という言葉について少々。

外濠に架かる橋の御門内ってのは、濠の城側に設けられた門の内側ってことで、建前としてはそれも城塞の内部。現実には屋敷町が城の本体を囲んでおり、ほぼ現代の千代田区辺縁部に相当。

呉服橋御門も鍛冶橋御門も、外濠が南北に通っているので橋の西詰にあり、1つ南の数寄屋橋の場合は、濠の方向がそこで西に曲るため、門は北詰ということになります。後の南町奉行所はその北詰の門内となるのですが、ご承知のようにとっくに濠は埋められて道路となり果て、上記3つの橋は交差点にその名を遺すのみ。「外堀通り」ってのは、外堀(濠)沿いの道路ってことなのかと思ったら、呉服橋以南は戦後まで外濠そのものだったってことで。

町奉行あれこれ(12)

突然ですが、実は私、先般随分と高みから論難致しました『図説 江戸町奉行所事典』を立読みする5年前、今からだと30年あまり以前の1986(昭和61)年に、「古地図史料出版株式会社」という企業の存在を知り、東久留米の住所を頼りに、西武池袋線沿線に住む友人を付き合せて、直接訪ねてみることにしたのでした。

てっきり小さくても会社然とした建物かと思いきや、一帯はまったくの住宅地で、該当する住所の辺りにもそれらしきものは見えず、諦めて帰ろうかと思ったほど。でもやっぱり悔しいから当該の番地(と思われる所)に建つ民家の前に行ってみると、入口脇にちゃんとその看板が掲げられているのを発見。応対に出た普段着の年輩男性(社長?)に突然の訪問を詫びつつも、しっかり幕末の切絵図の復刻版セットってのを購入し、ホクホクしながら帰途についたのでした。

2018年4月12日木曜日

町奉行あれこれ(11)

さて、山内薫さんのこと。『大武鑑』の明治2(1869)年の項(それが最終)にその名はあるものの、そっけなく「御定府」とあるだけで詳細は示されず、上屋敷の所在地は「あさぶ古川丁」(麻布古川町)となってます。同じ明治2年でも、件の地図2枚、すなわち『明治二己巳年改正 東京大繪圖 全(春三月新刻)』および『明治二年東京全図(初秋新刻)』よりさらに早い時期の記述なのでしょう。でもそれが手がかりとなり、やがて何者かが判明。

江戸初期には、幕閣を除くと水戸家が例外的な定府大名だったのが、中期(17世紀末~18世紀中盤)以降は、分家によって生じた小規模な大名の「御定府」が少なくなかったのだとか。それと、屋敷が麻布(から鍛冶橋内に引っ越した?)ってことから、これは土佐の支藩、高知新田(しんでん)藩最後の当主、豊誠(とよしげ)のことに違いあるまい、と判断するに至った次第。

2018年4月11日水曜日

町奉行あれこれ(10)

【承前】(……こればっかりで毎度恐縮)

さて、この土佐藩主の松平ですが、既述のとおりこれもほんの一例に過ぎず、長門(+周防)の毛利、薩摩(+大隅)の島津も当主は代々松平。加賀(+能登+越中)の前田も、仙台の伊達も、大物外様大名は大抵松平なんです。江戸の前期から幕末までの絵図にやたらとこの松平の名前が目立つのは、つまりそういうわけなんでした。

それが一転するのは慶応4年、すなわち明治元(1868)年。前年秋の大政奉還、暮の将軍辞任で、既に幕府なんてものは名実ともになくなってはいるんですが、新政府(の体を成していたか否かはさておき)はその年の初め、朝敵徳川をありがたがるたあけしからねえ、ってな塩梅で、先祖代々「下賜」されていた松平を名乗るのはまかりならん、ってことを言い出し、名誉松平家は悉く元の苗字へと戻すことに。戊辰戦争[終戦は翌年、己巳(きし)の年になっちゃいましたけど]の序盤で、急造の、つまり偽物の錦旗をはためかせてまんまと官軍に成りおおせた薩長側が、一挙に優位に立って暫く後の発令です。

町奉行あれこれ(9)

さて、漸く特別裁可苗字たる松平に話を戻しまして、その一例が、関ヶ原のドサクサでうまく立ち回り、遠州掛川の小大名(こだいみょう)から大国土佐の領主となった山内家であった、ってことなんでした(失礼ですかね)。かみさんが偉かったらしい初代一豊を除き、二代目忠義以降は幕末まで松平です。ただし、既述のとおりそれは当主と(元服後の?)嫡子に限り、隠居するとまた松平じゃなくなってたんじゃないかしらと。

安政の大獄に引っかかって一旦引退したものの、英傑として持ち上げられ、井伊大老亡き後にはすっかり実権者として返り咲いていた豊信(とよしげ)、例の「容堂公」も、現役藩主である従兄弟(養子)の豊範(こっちが本家筋)が「松平土佐守」だったのに対し、若くして「老公」となってからは、飽くまで「松平土佐守」。『大武鑑』の「諸大名御隠居方 並 御家督」蘭には、万延元=安政7(1860)年に〈土佐侍従容堂藤原豊信〉、翌文久元年に〈高知侍従……(以下同)〉、元治元=文久4(1864)年に〈土佐少将……〉、慶応3(1867)年に〈高知少将……〉と記されております。

2018年4月10日火曜日

町奉行あれこれ(8)

【承前】

ところで、実は幕末の数年間、『大武鑑』に将軍の記載がないんですが、江戸を留守にしてたからでしょうかね。冒頭に将軍の名前が示された最後の例は万延元=安政7(1860)年のやつで、〈家茂公〉と大書された後、2行にわたり〈正二位内大臣右近衛大將征夷大將軍淳和弉學兩院別當源氏長者〉と小さな文字が続きます。現行表記では、將 → 将、弉 → 奘、學 → 学、兩 → 両、當 → 当、って感じですが、いずれにしろこれだけ長ったらしい名前なのに、徳川という苗字はまったく姿を見せません。

それ以前のものも、1世紀以上にわたって将軍の紹介はほぼ同形式で、能書きと名前が後先だったりという異同がある程度。また、当然と言うべきかも知れませんが、官位は一定ではなく、同一人物でも、言わば出世魚のように少しずつ文言が入れ替ったりもします。より古くは、たとえば天和(てんな)元=延宝9(1681)年の『顯正系江戸鑑』とかいう文書からの記述だと――

町奉行あれこれ(7)

さて、迷走を続けると致します。まず、前回の(一部誤った内容の)投稿では何気なく書きっ放してましたが、一旦名跡が途絶えた形の坂部家が数年後に相続を認められたという点について少々。

幼くして亡くなった先代の安次郎広達(満8歳?)の跡を継いだのは、3つほど年下で、そのとき漸く中1ぐらいだった遠縁の悦之助広保。で、こういう場合、年齢には関係なく、系図上は自動的に後継者が先代の子(養子)ということになるのですが、江戸の前期には跡継ぎが未定のまま当主が没すると、否応なくそこの家は断絶となり、その手で取り潰された大名家は数知れず、果然国中に浪人者が溢れて社会問題へと発展。そのため徐々に規制は緩められ、しばしば事後の末期(まつご)養子も黙認されることとはなりました。つまり、跡取りのいないまま当主が危篤に瀕してからというだけでなく、急死の場合には当面それを糊塗しつつ、急遽養子を届け出て家督相続を認めて貰うことも可能(かも知れない)、ということになったわけです。

2018年4月8日日曜日

町奉行あれこれ(6)

前回で漸く八丁堀同心の話も終ったようで。てえか、終りにしました。
 
                  

とにかく、1991(平成3)年に三省堂で覗いた『図説 江戸町奉行所事典』、目当ての巻羽織の経緯は知れなかったものの、歴代町奉行の一覧と奉行所移転の図解には興味をそそられ、まだ健在であった病的記憶力(健やかなのか病んでるのかわかりませんが、撞着語法ってことでひとつ)を久しぶりに稼働させて、おもしろそうなところを憶えて帰ることにしたのでした。

まずは目ぼしい奉行20名ほどの在職期間を記憶(半分は忘れちゃいましたけど)。で、その一覧表では各奉行が就任順に並べられてまして、それぞれに(北)または(南)という表示が付されていたのですが、なぜか(中)と記された例はなし〔「南北」および「中」という区分については、こちらに記してございます〕。初代「中町奉行」ということになっている丹羽遠江守は南、「後任の」坪内能登守は北ってことになってました。あれ?って感じだけど、とりあえずは記載どおりに憶えとくことに。

2018年4月7日土曜日

町奉行あれこれ(5)

前回は、大岡越前守の(嘘の)肖像から、つい本来は無関係の刀装談義に話題が逸れてしまいましたが、八丁堀同心の羽織問題に話を戻すと致します。

さて、その前回の終りに触れました、国会図書館のサイトで偶然見つけた「巻羽織じゃない同心姿が描かれた絵」っていうのは、18世紀後半の黄表紙(きびょうし)、『新建哉亀蔵(あたらしくたつやかめぐら)』の挿絵の1つで、羽織袴姿の町人が2人、町方役人3人を出迎えているという図。1人は与力、あとの2人は同心ってことになりますが、3人とも羽織は全然黒じゃない。もちろんそれ江戸の話です(時事ネタにつき、歌舞伎の時代物のように、鎌倉時代の鎌倉という設定にはなってますけど)。

2018年4月6日金曜日

町奉行あれこれ(4)

恐縮致しております。ちょっとだけ話を戻すような塩梅で、今回はひとまず時代考証家、故稲垣史生氏の事績について少々。

この人、大阪万博の1970(昭和45)年に放送されたNHKの大河ドラマ、『樅の木は残った』では、珍しくやりたい放題でございました。山本周五郎の原作は終盤のほんの一部に使われただけで、大半はオリジナル脚本というご苦労な番組(数年後に文庫読んだらびっくり)。昔の人気時代もの作家の通弊ではありますが、山本自身はほぼ考証知識皆無。大衆文学の大家とは言え、実は考証者泣かせの代表的存在だったのでした(この3年前に死去)。『水戸黄門』その他、一話完結もののテレビ時代劇では、この人の膨大な短編からパクった話ってのが珍しくなかったんですけどね。

町奉行あれこれ(3)

さて、勝手に話を続けることに致しますが、前回触れた、町奉行とその役屋敷の位置と名称についての知見は、実は偶然得るに至ったもので、神田神保町へ「調査」に行ったのは、既述のようにほんとは八丁堀同心の制服(?)、すなわち着流しに巻羽織(三つ所紋の黒い羽織の裾を帯にたくし込んだ例のあれ)ってのが、いったいいつからそうだったんだろう、っていう長年の疑問を解消したかったからなのでした。
 
                  

実は私、小学生の頃から江戸時代の風俗(服装髪形刀装など)が気になって、子供なりにいろいろ調べて遊んでたんです。と言っても、小学生が参考にできる材料なんて皆無に等しく(まだ漢字も碌に読めないし)、よくはわからないままではありましたものの、テレビの『水戸黄門』に出てくる格好が元禄時代にしちゃ新し過ぎるのに面喰ってしまい、化政時代ならわかるけど、ほんとにこんな早い時代にあんなだったのかしら、って悩むような子供だったんです。まさかテレビの時代劇を作る人たちが臆面もないデタラメを垂れ流してるなんて思ってもいなかったもので。

2018年4月5日木曜日

町奉行あれこれ(2)

早速ながら、町奉行のお仕事ですが、さすがの遠山金四郎とて相手が武士では裁けない、ってんで(ほんとは将軍家御直参、すなわち旗本御家人以外はその限りでもないんですが)、悪者が偉そうな侍だったりすると、そいつを白洲に同席させといた上で(呼ばれてノコノコ出てくる悪玉ってのも人が好過ぎるような)、最後には例の桜吹雪でやり込め、「評定所より追って沙汰があろう」ってなことを言ってたりもするんですけど(松方弘樹がやってたやつです。何度か観たことあるのは殆どあの人のだけ。もちろん江戸弁っぽさは遊び人としても旗本としてもバッチリ)、そりゃまた随分とひとごとのような言いようで。

町奉行あれこれ(1)

前回で何とか結末(?)まで再録し終えた、日本語あるいは東京語に関する恐るべき愚長文をSNSに書き連ねるうち、江戸・東京発音には不可欠の「無声母音」が見事に欠落した石倉三郎が八丁堀同心とは片腹痛いっていう(石倉本人は結構好きだけど、それとこれとは……)国語の音韻問題(?)から、ついその同心の話に逸れたかと思ったら、そのままズルズルと町奉行その他のネタに流れて行き、結局元に戻れなくなってしまった、という仕儀とは成り果てまして、以下はその長~い逸脱ネタってことになります。

逸脱のきっかけとなった回の投稿を分断し、その後半からいきなり始まってますんで、かなり唐突ではありますが、そこはどうかご容赦くだされたく、みたいな。最小限の修正は施してはいるんですけどね。ま、ともあれ…

2018年4月3日火曜日

無声母音と歌メロ(9)

早速ですが、都はるみの『北の宿から』には無声母音が皆無という話から。

ああ、先行する父音(頭子音)と一緒くたにして「無声子音」って言うことにしたんだった。「子音」という語の持つ両義性により、やっぱりこれにゃあ無理があったようで。英語の ‘vowel’ =「声」と ‘consonant’ =「共鳴音」の訳語として、安直に国語音の「母音」「子音」ってのを当てちゃったのが混乱の元(「父」は亡き者にされたかのよう)。最初にもうちょっと考えて貰いたかったぜ。

それはまあさておき、この歌の一番の歌詞に出てくる該当部分が、〈ないでか〉の[ス]、〈つのりま〉の[ス]、〈てはもらえぬ〉の[キ]、〈編んでま〉の[ス]、〈た(北)の宿〉の[キ]でして、これらはすべて発話時には母音が無声化し、そうしないと東京発音にはならんのです(少なくとも俺の目の黒いうちはそうはさせねえ……って言ったってなあ)。

2018年4月2日月曜日

無声母音と歌メロ(8)

さて、件の『眠れぬ夜』という曲については、もちろんイントロだけでなく、本体にもかなり感服したものでした。当時の邦楽は、英米のロックだのポップだのを聴きつけていてると、どうしてもいろいろと拙く、手法も古過ぎる、ってのばっかりでしたから(流行ってたのが、ってことであって、優秀な音楽家は日本にだって昔からいくらでもいたんですけど、まあ大抵は埋もれてたような塩梅で)、こういう「進んだ」音楽を耳にすると、何だか自分の油断を突かれたようでもあり、図らずもちょいと驚喜など致しまして。

2018年4月1日日曜日

無声母音と歌メロ(7)

いわゆる邦楽には殆ど関心のなかった十代の頃、当時2人組の「フォーク」グループだったオフコースの『眠れぬ夜』って曲(の特にイントロ)にはちょっと感心し、件の『さよなら』以前にはたぶんそれが唯一自分の知るオフコース作品だったのでした。で、これもちょっと確認してみたところ、〈涙流ても〉って歌詞の「し」は、前後のいずれよりもピッチが低いのを明示せんがため(たぶん)、ほぼ母音の無声化は施されておらず、また〈傷けてゆく〉〈入ってたら〉〈飛び出て〉の[ツ][キ][シ]の母音も決然たる有声音でした。