2018年3月28日水曜日

無声母音と歌メロ(6)

前回は成行きでオフコースの『さよなら』って曲を例に、歌メロにおける無声母音の扱いについて言及したのでしたが、どうやらこの小田和正氏、条件が許す限りは、それこそ「隙あらば」といった風情で、無声母音の歌唱は発話時の法則に準ずるという(無自覚の?)自己規範をお持ちのご様子。『言葉にできない』って曲でも、後半で二度繰り返される〈嬉くて〉の[シ]をしっかり無声化して歌っとりました。この歌詞の場合は、大抵の歌手なら迷わず有声で歌うんじゃないか、とも思われる事例なんです。

無声母音と歌メロ(5)

再三再四という様相を呈しておりますが、なんとか主旨である「歌メロにおける無声母音問題」(毎回言い方変ってる気もしますけど)に回帰。逸脱を重ねるのは無意識の逃避行動なんですかね、ってひとに訊いたってしょうがないのは百も承知二百も合点。

さて、前回までは、いくらアクセントに拘ったところで、無声母音という、東京語には不可欠の発音がなくなっちゃうのはどうしようもねえじゃねえか、っていう難癖が眼目だったわけですが、実はそれ、必ずしも歌メロなら全部諦めなきゃならないってこともないんですよね。って、相変らず肝心なことを後から引っ張り出してくるという遅延技法(?)。まあそこはどうぞお許しくだされたく。

2018年3月27日火曜日

無声母音と歌メロ(4)

さて、漸く本来の主旨たる「歌メロにおける無声母音問題」に早速とりかかろうと思います。当初からその話がしたくて書き始めたのでしたが、やっとのことでそこにたどり着いたという心地。おっと、漸く片足の先を踏み入れた程度で、まだたどり着いたなどとは到底言い難いところではありますが。
 
                  

余計な言いわけは切り上げ、本題に入ると致しやしょう。まずは既にたびたび言及しております、「言葉を大切に」して伝統的東京アクセントに沿ったメロディーを付した(と言い張る)山田耕筰の『赤とんぼ』、その一番の歌詞の末尾、〈日か〉の「日」、すなわち[ヒ]が、後続の[カ]の前では自動的に母音の無声化を生じ、発話においてはピッチの高低が判別不能の「囁き」にならずにはいられないのが「正しい」東京発音なるに、アクセントの高低には無益極まる拘りを誇る山田先生、この「日」が決然たる有声音で、しかもちょいと間延びした歌メロになっちゃってるってことについてはとんと無頓着、ってことに対する義憤、じゃねえや、冷笑(てえか言いがかり)というのが、実はこの1年あまり言いそびれていた与太話の眼目だったのでした。……って、相変らず文が長くて恐縮。一種の貧乏性が発現したるものと思召されたし。

無声母音と歌メロ(3)

前回、説明を試みて結局また脱線しちゃった無声母音の話です。自分の名前[キチロー]の[キ]を例にとったんでしたが、声帯の振動を伴わない無声音である(有声≒濁音、無声≒清音……って感じ)カ行だのサ行だのタ行だの……の父音(頭子音)に挟まれた狭(せま)母音たる[イ]と[ウ]が、前後の影響により、概ね本州の西半分と四国を除く地域では自動的に無声化する、ってことなのでした。

その話から、いつものようについ枝葉末節に分け入ってしまい、本来なら無関係の英語の音韻談義に堕してしまったという仕儀だったわけですが、やっとのことで国語におけるその無声母音問題に立ち至ることができる(かも知れない)という運びに。

2018年3月26日月曜日

無声母音と歌メロ(2)

早速ながら、件の「無声母音の欠落」について。あ、でもまずはその「無声母音」自体が何物なのかをざっと語っておきたくなりました。

……とは言ったものの、いったいどう語りゃいいんだか。とりあえず例を挙げれば、あたしの名前[キチロー]の第1音節[キ]の母音[イ]がそれに該当します。カ行の父音(頭子音)もタ行のそれも、無声音(声帯が振動しない息だけの音)で、それらに挟まれた母音の[イ]が、東京(と言うより、中部から中国、四国を除いた、東日本や九州一帯の)発音では、自動的に無声化する(つまり前後の父音と同様に息だけとなる)っていう現象なんです。

2018年3月25日日曜日

無声母音と歌メロ(1)

前回は、今からだともう1年数ヶ月前に半端なところで継続を遺棄し、そのまま途絶していた「伝統的東京語と歌メロの関係についての与太話」の、半端な中断部分で終っておりました。その話を約1年後に再開……したところから以下に再録して参ろうかと。

そもそも書き始めたのは2016年の秋だったものの、11月末には早速趣旨が逸れ、結局次々と逸脱を重ねたまま放棄したのが2017年春。下記は、同年12月、気紛れに書き始めたその続きという次第。そろそろやっとかないとそのまま有耶無耶になってしまうような気がしたもので。ほっといたからって誰が困るわけでもないのは承知ながら、結局自分が落ち着かなかったんでした。中途半端のままじゃ死んでも死に切れない、なんてこた金輪際ありませんけど。ひょっとすると無意識に遠からぬ死を予感してたりして。まあいいか。

無声母音はどうする?(3)

さてその、田村正和をも凌ぐ無声母音の欠落ぶりを誇る人物、誰かと申しますと、瀬戸内海は小豆島(香川県)の出身、石倉三郎という御仁。何ら勿体をつけるつもりはなかったんですが、前回もまた長くなっちゃって、あのまま続けてたら区切りがつけられそうもなかったもんでつい。すみません。

ともあれこの石倉氏、中学で大阪へ転居、二十歳の頃には東京へ引っ越したそうなので、まあ普通の地方出身東京在住者なんですよね。それでどうしてあの訛りがとれないのか。無声母音の欠落に関しては京阪なんかより小豆島のほうがよほど根強い、ってことでしょうか。あるいは四国全般の傾向? 鼻濁音同様、いずれにしても京の都なんかよりよっぽど古い音韻を遺しているのは間違いないでしょうけれど。日本中の田舎の言葉に通底する事象ではありますが。

無声母音はどうする?(2)

アクセントと歌メロの食い違いだとか、鼻濁音の有無だとか、俺に言わせりゃ「だってあんたらみんな歌聴いて全部意味わかってんでしょうが」っていう、実に些末な事柄を大袈裟に嘆いたり糾弾したりする連中が、誰ひとりとして言及すらしない(飽くまであたしの知る限りってことですが)、「無声母音の無視」という由々しき(かな?)問題につきまして、漸く申し述べることができそうな模様です。ここまでズレ込んだのはすべて自業自得。長くてほんとにすみません。

アクセント云々については、歌詞、メロディーともに、あまりにも極端な制約を受容しない限り(あたしゃごめんだね)到底解消し得ないのに対し、鼻濁音問題なんざ、単にそれを認識しさえすれば一挙に解決可能。いつまでも放置状態なのは、そもそもその発音の欠けた人には肝心のその認識自体が至難であり、当然その必要性を感ずることすらできない、という実情によるものでしょう(ほんとに?)。

2018年3月23日金曜日

無声母音はどうする?(1)

アカトンボあるいはアクセント問題から、実はそれより気障りな無声母音の欠落という現象についての、またしても勝手な御託へと、ちょいと移行します。

「準」標準国語、いわゆる共通語の母体とされる東京方言(の一部)に顕著な音韻上の特徴として、最初の2つの音節は(1音節語の場合は下接語との組合せにおいて)必ずピッチが違い、「高→低」か「低→高」のいずれかしかない、ということは既に申し上げました。前者では当該語の音節数に関わりなく、2音節目で下がったピッチは二度と上がることがないのに対し、後者の場合は単語内の音節数や下接語との関係により、高いままかやがて下がるか、また下がるとすればどこでそうなるか、という区分がある……とは言え、結局は全部で4種類しかアクセントの型がない、ということも既述のとおり。

で、そうした高低のアクセントが、歌詞としてメロディーを付された場合にも保持されねばならぬとし、そうした作曲法の模範例として山田耕筰による『赤とんぼ』を称揚する者が昔から跡を絶たないものの、現実には音楽的音程と言語的高低アクセントはまったくの別物であり、かかる「理想」も所詮は宛然幻想。どう足掻いたところでそれに徹するのは無理、ということを、ほかならぬ山田自身が、ほかならぬ『赤とんぼ』の旋律によって明示しているではないか、という論考(難癖)が、前回までの主旨でございました。

2018年3月22日木曜日

アカトンボのアクセントって?(4)

さて、「頭高型アカトンボ」に正しくメロディーを施した山田耕筰先生の偉業を讃え、歌メロはすべからくこうあるべし、てな空疎極まる与太話を、宛も自らの知見ででもあるかの如く吹聴し(ほんとか?)、それに違背するメロディーは断じて許すまじ、とでも言い張るが如き連中に対する難癖の続きです。

山田と同様、東京生れ(現渋谷区育ち)ながら、世代はかなり下る團伊玖磨(それでも私の亡父より1つ上で、生きていればとっくに90歳超――曲は山田のよりずっと好き)が、12歳の時分から個人的な師匠であったという山田に、この「赤とんぼ」という歌詞に付されたメロディーについて質問した、って話があります。発話時の高低アクセントは是非とも歌メロに反映されねばならぬ、という山田の拘りは既に知っていたので、[ア]が[カ]より高いのは妙ではないか、という甚だ妥当なる疑義。

アカトンボのアクセントって?(3)

アクセントの相違は聴解の妨げになどならず、したがって歌メロの高低の正否を論うのは不毛である、ってな屁理屈を書き連ねて参ったわけですが、ここでちょいと気になることを思い出してしまいましたので、それについて少々。

かかる事情は日本語にこそ該当するものの、言語によっては、発音とともに抑揚によっても意味の違いが示されたりするんですよね。英語も、かつては英米人どうし話が通じなかったりもしたそうですから、そうした要素も皆無ではなかったと思われますが、今ではそれこそ東京弁と関西弁の関係のようなもので、お互い何を言っているのか理解不能といういことはないでしょう(ただし、それぞれの、特に英国の田舎の訛り丸出しだと、日本語と同様わけわかんないこともありましょうが)。

アカトンボのアクセントって?(2)

前回の続きです。藤山一郎については、たかだか「ホタル」の「ホ」が「タル」より低いメロディーが気に食わなかった(らしい)ってだけなので(山田耕筰よりよほどうるさかったとの指摘もありますが)、もういいでしょう(エラそうに)。以後は専ら山田耕筰、あるいはそのトンチンカンな信奉者の傲慢または誤謬について、極力それを上回る傲慢さでケチをつけてやろうと目論んでおります。不毛の極み。先刻承知。

「傲慢」というのは、標準語と同一視される「一部の」東京方言のみが許容し得る正当な国語である、とでも言うが如きそのエラそうな態度に対するもので(山田がそう明言したとも思われぬし、そもそも何者が「許容」したりしなかったりできるってんだか)、「誤謬」としたのは、前回述べた、音楽的なピッチと言語音のアクセントは到底「一致」などし得ない、という点に加え、例えば、現にこれだけ地方によるアクセントの差異が甚だしいのに、それによって同一言語としての理解が不能になるなどということは皆無に等しい(文脈、状況というものがありますでのう)、てなことすらわからねえのか、という気持ちの表れでございます。

アカトンボのアクセントって?(1)

「所感をまとめる」とか言っときながら、まとまりとは無縁の索然極まる長駄文を垂れ流して参りました。「して参りました」ったって、決して心を入れ替えてもう止そうなどという殊勝な思いに至ったわけではなく、依然懲りてはおりません。

これまではわずかながらも後ろめたさのような気持ちがあった(ような気もする)んですが、もう居直りました。まとめるどころか、寸毫も理論の体をなさぬまま、あちこち飛び火を繰り返し、数々の類焼をも顧みず(省みず?)ここまでダラダラと書き連ねてきたのだから、今さらお利口ぶってもしかたがねえ、ってな心にて、頭に引っかかった枝葉末節にいちいち言及して参ることと致します。

先日来の(勝手な)「懸案」、山田耕筰と藤山一郎のネタについてはまたしても日延べってことになりそうですが、それについても前提となりそうな雑学(与太話)を含んで、このまま「漫談」を続ける所存。何卒ご海容のほどを。

東京語の音韻その他について(6)

それでは改めて「フツ相通」について。

まず、日本の字音ってのが、もともと昔の中国(の複数地域)の発音を「ヘタに」模したもんだってことは大概の人が承知していることかとは思うんですが、日本語の音韻が昔から(日本なんて国がどこにもなかった縄文時代から?)世界的な傾向に照らせば相当に単純素朴であることを実感している日本人はそんなにいないのではないでしょうか。今日、英語の発音が困難な上、カタカナ式ではまったく通じず、ってのも何ら不思議はないわけですが、千数百年前に導入した漢字音もまた似たようなもんで、ごく一部の語学的天才(空海とか?)ででもなければ、とても中国語の発音なんかできゃあしません(見て来たわけじゃないけれど)。

東京語の音韻その他について(5)

前回の続きではないんですが、日本語の音韻について多少関わりのある話をひとくさり。

先日ラジオを聴いていて少々感心したことがありまして。DJの南波志帆という人物、まだ23歳の女性とのことながら〔2016年10月現在〕、「既存」を正しく[キソン]と発音していたのですよ。いや、23歳なんて立派な大人だし、本来なら特段感心するようなことでもないのだけれど、いつのまにか[キゾン]という誤読が蔓延し、今では本来のほうがすっかり少数派となってしまっていますので。

これ、理屈としては、字音の不統一となるからダメ、ってことなんでしょう。「既」には漢音しかなく、したがって続く「存」も呉音の「ゾン」ではなく須く漢音「ソン」たるべし、みたいな。でもそれ言い出したら、例えば「依存」も「イゾン」は誤りで、いつの間にかそればっかりになってるNHK式に「イソン」とせねばならん、ということになりそう。呉音で統一すれば「エゾン」の筈だけど、誰がそんな言い方するかよ。

東京語の音韻その他について(4)

共通語あるいは東京語の音韻についての雑駁な所感をまとめた一文をものしようと思いつつ、書き始めたら一文どころか3つも掲げることになってしまい、あまつさえ(半ば以上予期したとおり)余談ばかりでついに本題には至らず、てな仕儀とは相成り候、って感じですが、ま、所詮そういうやつだったってことで。性格は病気に非ざれば治る気遣いとてさらになく。

こうして毎回弁解を繰り返さねばならぬというのも確かに厄介ではありますものの、そのときどきに思い至ったことをそぞろに書き連ねる愉楽は捨つるに忍びず、結句やめられませんので、そこは何分どうぞ。

東京語の音韻その他について(3)

本旨に立ち戻りまして(本旨たって、それ自体が枝葉だったような……)、「方言」と「俚言」の違いは何かと言えば、前者のほうがより広い括りでの地域言語を指すのに対し(関西とか関東とか、あるいは大阪とか東京とか)、後者はその細目とでもいうような、もっと細かい区分に当てられる傾向があるようです。でもそれよりは、方言がその地方・地域に固有の言語現象全般を指すのに対し、俚言は個々の具体的な語彙や表現に用いられることが多い……と言うよりは、もともと言語体系全体ではなく、個別の語句について使われるのが俚言なのだとも。同義語とされる「俚語」にはさらにその用例が多いとのことですが、いずれにせよ、厳密には特定の言い方を称して「方言」というのは穏当ではなく、「まっつぐ」は江戸の俚語(俚言)というのが正しいようで。

まあそれを言うなら「共通語」も、それどころか「標準語」だって、個々の「語」について用いるのが本当かも知れないということになりそうですが、だからと言って区別のために「共通言」だの「標準言」だのとは言いませんよね。してみると、「俚言」ってのは随分とどっちつかずの、鳥とも蝙蝠ともつかねえ曖昧な野郎だったてえことに。いずれも、本邦よりはよほど研究の進んだ西洋言語学の用語の訳にとりあえず当てた漢語が、もともと持っていた大雑把な語義と未分化のまま今日に至る、ってところでしょうかね。どうでもいいか。

2018年3月21日水曜日

東京語の音韻その他について(2)

〔以下、2016年10月4日以降のSNS投稿文をほぼそのまま順次羅列、という感じになります。〕

先般投稿の拙文に好意的反応を示してくださった粋な江戸っ子の姐さんと、江戸弁および東京における関西弁問題(そんなのあるのか?)について交したやりとりに触発され、東京語の発音とアクセントについての断片的な考察をまとめてみようと思い立ちました。どうせまた長い話になるのは必至ですが、なるたけ枝葉を除くとともに、適宜区切りを施し、複数の文章に分けるよう努めるつもりです。努めは致しますが、うまく行くかどうかは知る由もなく。

                 

さて、近年NHKのラジオアナウンサーの物言いがどんどん妙なことになっておりまして、ニュースを聴いていても、例えば「駅舎」を「易者」の如く言うかと思えば、返す刀で「船体」を「千体」のように発音するといった無法が罷り通っております。

東京語の音韻その他について(1)

2016年10月頃から長期にわたって SNS に書き綴った愚文の一部に手を加え、ここに再録している次第なのですが、いっそのこと、これまでの掲載分を一部とするその駄長文自体を順次掲げて行こうかと思いまして。

依然相当の分量が残っており、趣旨の逸脱、迷走も頻繁なれば、随時区切りを施して参る所存。極力文章の整理にも努めるつもりではございますが、何せもともとが無計画に書き散らした恐るべき長文ですので、自ずとその整理にも限界はあろうかとは思われます。……などという予めの弁解がまた小ざかしいところですけれど。
 
                  

とりあえず、前回の再録分に至るまでの迷走経路をざっと示しますと、

2018年3月20日火曜日

セイかシか?(5)

(承前)ときに、血族集団を意味する「うじ」(ウヂ)は同義の朝鮮語に由来すると言われ、類義、類音の語は、モンゴル語だのトルコ語だのにも見られるのだとか。ただし、そちらから日本に渡来したというより、日本へと同様、そっちのも別の方面から伝えられたものだという説もあります。

一方、古代の豪族の地位を示す「かばね」は、今日でも死骸の意味で使われるとおり、骸骨ってのが原義だそうで。皮骨、すなわち「かわほね」が語源と説く者もおり、そこから「血肉を分けた親兄弟」って意味が派生して、それが古代の姓(かばね)に繋がった、ってんですけど、それはどうでしょうね。少々民間語源説の臭いが。新羅では社会的存在の高下を表す「骨品」という語が用いられ、それになぞらえて、本来骨とは関係のなかった「姓」に「かばね」の訓を当てたのでは、ってほうが好きです(大野晋の『岩波古語辞典』の記述)。

いずれの場合も、肝要なのは、漢字はもともと中国語の文字であり(言わずもがな)、それに当てたやまとことばである字訓は、当然ながらまったく同じ意味とは限らないってこと。「氏」も「姓」も、この地が未だ縄文時代にあり、国家なんて影も形もなかった頃にまで遡行可能な文字、と言うより語であり(当然今とは随分字体が違いますけど)、母系を基準とした血族集団の称が「姓」で、そこから分派した個々の下位区分を指すのが「氏」だったとのことです(やがて後者が前者の上位に?)。

2018年3月19日月曜日

セイかシか?(4)

えー、再三再四気を取り直しまして、日葡辞書からは漸く離れつつ、引続き姓氏の話を。まずは一旦「姓」の字についての能書きに話を戻します。

1925(大正14)年から2000(平成12)年までの75年を費やし、1985(昭和60)年に著者・諸橋轍次が没した後も補完作業が続けられて漸く完成したという、全15巻に及ぶ大修館の『大漢和辭典』によれば(真砂図書館が近所でほんとによかった)、「姓」の字の原義である「血筋」の意を表すのが漢音セイであり、呉音のショウ(シヤウ)、およびその転訛たるソウ(サウ)は、〈氏と混用して、家がらをあらはす稱呼〉とのこと。これらは「字義」についての説明であり、それぞれに当てられた「かばね」や「うじ」という字訓、すなわち和語の使い分けを叙したものではありませんので、念のため。

「かばね」という「義訓」(骨、死骸が原義)は、漢音セイのほうに対応するものとして示されておりましたが、その「かばね」も、ここではより古い語義によるものであるは明白。つまり、後に「うじ」とともに政治権力が身分制度の区分として規定した用語とは別、ってことです。

セイかシか?(3)

少し脇道から引き返しまして、(日葡辞書における)件の ‘Xixǒ’ =「四姓」ですが、『角川古語大辞典』の引用では――

〈四つのうぢ、みなもとうぢ、たひらうぢ、ふぢはらうぢ、たちばなうぢ、これを、げん、ぺい、とう、きつといふ。〉

となっており、一方の『小学館日本国語大辞典』、つまり土井氏による古いほう(1960年刊『日葡辞書』)の記述(を写したと思われるもの)では――

〈ヨツノ ウヂ、すなわち、ミナモト ウヂ、タイラ ウヂ、フジワラ ウヂ、タチバナ ウヂ。コレヲ ゲン、ペイ 、トウ、キツ、ト ユウ。《訳》「日本の古い四つの家族」〉

との文言。これ、古いほうがポルトガル語による表記、すなわち――

セイかシか?(2)

姓氏問題を続けます。

とにかく、件の真砂図書館〔地元文京区本郷所在の行きつけの店……じゃなくて区立真砂中央図書館。「真砂町」ってのが旧町名なんです。規模はさほど大きくもないけれど、歴史ものや(貸出対象外ながら)各種辞典類の品ぞろえがここの売りで、自宅から徒歩10分ほどのあたしには実にお誂え向き〕で角川の『古語大辞典』(初版:1982 - 1999年、全5巻)を開いてみても、「姓」については「かばね」や「しやう」、「せい」として載録されているのに、「し」という見出し語に「氏」の字は見当りません。「うぢ」の下にしか記載はない。つまり、近代以前に「氏」を単独の字音語として用いることはなかった、ってことで。

人称代名詞としての用法、つまり「氏の功績を讃え……」みたいなやつとか、接尾語としての用法、「米大統領トランプ氏」だの「以上の三氏」だの「元の彼氏(!)」だのの[シ]も、明治以前にはありません。後者は明らかに「うじ」の誤読(?)の如きものに過ぎぬは灼然。3例めなんか、まず指示代名詞の「彼」が無理やり普通名詞にされちゃってるわけですし(てなこと今さら言うのも野暮の骨頂たあ先刻承知)。

2018年3月18日日曜日

セイかシか?(1)

前回まで20回にわたって書き連ねて参りました、「勝手なロック史」とでも呼ぶべき駄文は、最初に断っておりましたように、実は一昨年、2016年の秋から SNS に長々と書き散らした愚長文から派生したものでした。

その随分と長い愚文、最初は「赤とんぼ」のアクセントに絡んだ山田耕筰、およびその安直な信奉者に対する揶揄から始まり、ほんとはその話をネタにして、日頃から苦々しく思ってる半端な衒学の徒輩(おっと、俺か)による、歌のメロディと歌詞の関係に対する見当外れの言説や、主に昨今の NHK アナウンサーに顕著な非東京語的発音をやっつけるつもりだったのに、そこに話が達する手前で、次々と余計な話題へと自らを引きずり込んでしまい、果然長大極まる与太話の堆積とは相成ったのでありました。

国語の音韻について、とでもいうべき所期の主旨が、書き綴るにつれて次々と逸脱を繰返し、やがて江戸の町奉行やその役宅について、さらにはそこから近代以前の日本における姓名の慣習へと話が流れて行ったという、相も変らぬ放恣と無秩序の極み。

2018年3月17日土曜日

バックビートがロック?(20 ‐ 終)

さてクリフ・リチャード。英国での絶頂期は、ビートルズ旋風が始まった頃までの、つまりはあたしが生れた辺りの数年間なんですが、この人の曲で子供の頃知ってたのは、68(昭和43)年の ‘Congratulations’ だけ(例によって邦題は「コングラチュレーション」、そんなに「ズ」が邪魔なのか?)。小4の当時でさえ、既にビートルズは否応なく耳にしていたので、なんだか古臭い歌だなあ、とは思ったことでした。ことによるとその古臭さ、犯人はまたもリズム的な要因なのでは……と睨み、これも久しぶりに聴いてみましたる次第。YouTubeは重宝します。

テンポがより速めだからかも知れないんですが、基本的にはこれに負けず劣らず古風な路線を狙っているのが歴然(どころか、19世紀の発祥という ‘boogie-woogie’ 的形式)たる、同年のビートルズソング ‘Lady Madonna が、やっぱりどうしようもなくずっと「ハード」で、それもまた、奇数拍を(も)強調することによる相対的なバックビート感の後退によるものではあるまいかと。そう感じるおいらが変なだけなんでしょうかねえ、やっぱり。でも、とりあえずリンゴのキックはかなり強いですぜ。

                  

ともあれ、その後あたしが久しぶりにこの人の歌を聴いたのは79(昭和54)年、英国から戻る少し前で、イギリスでも久々のヒットだったという ‘We Don't Talk Anymore’ って曲。なんと邦題は 「恋はこれっきり」だそうな。てことはこれ、日本でも流行ったんでしょうね。

2018年3月16日金曜日

バックビートがロック?(19)

ロック(ンロール)談義の続きです。

ビートルズデビュー当時のイギリスでは、ほんのちょこっとだけアメリカでも売れた(曲もある)というクリフ・リチャード(本名 Harry Webb)が数年来の国民的ロックスター。この人、生れはジョン・レノンより数日遅れで、十代の時分から英国内随一のポップアイドルなのでした。

50年代、イギリスの若者の間で流行したスキッフル(skiffle)という、元来は相当に古いアメリカ生れの音楽がこの人の原点。「寄せ集め」と「何でもあり」を理念とし(?)、洗濯板に代表される日用品や手製の楽器で、金も技量もないズブの素人でもバンドに参加できる、というところが大流行の要因だったのでしょう。しかし、やがてその「なんちゃってバンド」ブームから、さまざまなジャンルにおける後の有名ミュージシャンが輩出されることになり、ビートルズもその一例なのでした。16歳で自らそうした素人スキッフルバンドの親玉となったジョン・レノンなどは、翌年年下のポールに触発されて始めるまでギターは弾けず、実母に手ほどきを受けたというバンジョーを弾いてたんですよね。

バックビートがロック?(18)

前回の ‘レノン版 ‘Ain't That a Shame’’ から3年後、1978(昭和53)年に、Cheap Trickが同年春の武道館ライブを収めたアルバムを発表し、それが当ってこのバンドも世界的に認知されるに至った……ってのも夙に伝説とはなっておりますが、当時ロンドンで暮していたやつがれは、シングルカットされた ‘I Want You to Want Me’ のヒットぶりをラジオで知り、その前年春、渡英直前に渋谷陽一が新人バンドとして紹介したのを聴いて気に入っていたため、何となく勝手に嬉しくなったものでございます。

その話じゃなかった。ええと、このチープ・トリックがそのライブで ‘Ain't That a Shame’ やってんですよね。レコードだとB面の1曲めだったと思うのですが、あたしが最初に聴いたのは、レノンのやつと同様、かなり経ってからで、82年に友人からレコード借りるまでは、こんなナツメロやっていたとはつゆ知らず。CD買ったのはそのさらに10数年後でした。

で、そのCDを、たぶん10年以上ぶりに聴いてみたところ、これもまたレノン式の、てえかそれよりよほど容赦のないエイトビートのハードなノリで、テンポはさらに速め。やはりキックの4つ打ちを基盤とするロックなイントロが、ライブならではのやりたい放題といった風情でひとしきり続き、歌が始まるまでは何の曲かわからないってほど。とにかくその長めのイントロ部分が、ビートルズ以来の(?)4拍全強方式で、ベースもギターのパワーコードも8分均等の刻みという具合。

2018年3月15日木曜日

バックビートがロック?(17)

唐突ながら、先般言及した ‘mods’ どもにとって英雄的存在であった、60~70年代の代表的ブリットロックバンド、the Whoの ‘Summertime Blues’ を初めて聴いたのは、既に高校生の時分、NHK・FMの渋谷陽一の番組ででした。その頃の自分にとっては既に大昔とも思われる1969(昭和44)年の録音で、翌年のライブアルバム収録曲、ってのは後から知ったことでしたが、とにかくあたし、これをフーのオリジナルだと思っちゃったんです。それほど50年代的な古臭さとは無縁の、むしろハードロックに類する強烈な音とノリ。キース・ムーンのドラムを始め、やっぱり全体的にとにかく激しゅうございましたもので。

やがてこれが、 ‘Johnny B. Goode’ や ‘Dizzy Miss Lizzy’ と同年の58(昭和33)年に発表されたエディ・コクラン(Eddie Cochran)のナツメロだということを知り、かなり驚いた記憶が。フーのアルバムと同年には、改名後の初アルバム中でT Rexもやってたんですねえ。寡聞にして殆ど72年以降の曲しか知らなかったもので、今になってYouTubeで聴いてみたら、例のちょいと気怠い雰囲気もあり、なかなか「現代的」な味付けではありました。素朴なナツメロも随分とお洒落になるのね、って感じ。現代だのナツメロだのったって、10年しか離れてはおらず、今じゃいずれも大昔ってところがちょいと可笑しくもあり寂しくもありってところですが。

バックビートがロック?(16)

前回吐露致しました所思、ってより偏見、すなわち50年代の旧型ロックたるチャック・ベリーの ‘Rock and Roll Music’ に対し、そのわずか数年後のビートルズによるカバーは、どうも音(ノリ?)が総体ハードになっている上、「強勢弱拍」たるバックビートのみならず、「弱勢強拍」の筈の小節1発めからガツンとカマす(60年代風のつもり)ってところが、微妙な、あるいは決定的な対比を成すのではないか、ってな寝言の続きを……。

またもチャック・ベリーのカバー、今度は ‘Roll over Beethoven’ をダシに、もひとつ屁理屈を捏ねてやろうてえ魂胆。57年発表の ‘Rock and Roll Music’ の前年、56年の作なんですが、ビートルズはそれを同じく7年後の63年、つまり ‘Rock and Roll Music’ を取り上げる前年、セカンドアルバムに収録してるんです。ジョージが歌ってんですが、こっちは翌年の ‘Rock and Roll Music’ とは裏腹に、チャック・ベリーのオリジナルよりややテンポは遅め。だから、ってこともないのは、速めに演奏された ‘Rock and Roll Music’ の事例から既に明らかではありますが、これもまたオリジナルの「バックビート」ぶりが相対的に稀薄なんですよね。飽くまであたしの勝手な了見(偏見)ではございましょうが、だってそう聴こえるんだから仕方がない。

バックビートがロック?(15)

60年代中期、イギリスの不良たちの間では連日 ‘rockers’ と ‘mods’ が熾烈な抗争を繰り広げていた、ってことんなってて、前者は宛然キャロルファンの革ジャン暴走族(10年遅れだけど)、後者は、ほんとは50年代のモダンジャズ愛好家が語源だってんだけど、細身のスーツを着込んだソウル好きのオシャレな連中。レインパーカ着てスクーターに乗ってんのがお決りの図です。

その後のブリットポップ(含ロック)への寄与は圧倒的にモッズ文化のほうが多大で、英国最大にして最初の国際ポップスターたるビートルズが、デビューのちょっと前までは絵に描いたようなロックンローラーどもだったってのはちょっと笑えそうな話だったりして。しかし、実は既に廃れつつあったロックンロール的なノリを再びイギリスで、ひいてはアメリカを始め世界中で流行らせたってのが、何気なく最大の功績だった……のかも。飽くまでロック的な「うるさい」リズムの再興ってことであって、古臭い50年代ロックのままだったら、そりゃまったく売れはしなかったでしょう。強烈なビートとポップな曲調の絶妙なる融合、ってのが最大の魅力だったような……って俺が言うことでもねえか。

そんなこたどうでもよくて、そのビートルズが、初期の頃(ってことはモッズ風俗バリバリの時代)、結構最新のソウル、リズム・アンド・ブルースとともに、数年前に流行ったロックンロールの名曲をよくカバーしていたのはよく知られた話。カバー(という語の原義にはちょいと後ろ暗いところもあったりしますが)だけではなく、まだ少年だったその50年代に作ったオリジナル曲も、末期の69年に至ってアルバムに収録したりしてますが(よほど新しいノリで)、当初はむしろ時代遅れとの自己判断だったのか、ジョージ・マーティンが選んだというデビュー曲が旧作の1つだったのを例外に、以後は毎回新作ばかり。

バックビートがロック?(14)

前回のジミヘンコードの話、ありゃ飽くまで平均律音階が基準ですから……ってわざわざ断るのは、以前、「増2度と短3度は違うんだよね」って、随分エラそうに指摘されたことがあったもんで。てやんでえ、こちとらフレット楽器のギター弾きだってのがわかんねえのか、この頓痴気が、とは思いましたけど、ま、そういうことですので、そこはどうぞご了解くだされたく。

それはさておき、「ノリ」または「ビート」のこと。「臨床例」の追加ってわけでもありませんが、ディープ・パープルでまた思い出したことがございまして。

奇しくも5年遅れで「ミシシッピ・デルタ」を知った72(昭和47)年夏、後にライブアルバムの傑作と賞される ‘Made in Japan’ (日本じゃあ洒落のない「ライブインジャパン」だけど)を生み出すことになる日本公演が行われ、実はあたし、ちょうどその武道館公演の日程と同時期に、偶然青森くんだりから、武道館とは遠からぬ文京区本郷の姉貴んちに泊りがけで遊びに来てたってのに、それ全然知らなくて……。ってことはどうでもよくて、その2枚組のライブアルバムを、2年ほど後に友達から借りて聴いたところ、例の  ‘Smoke on the Water’  のイントロに合せて聴衆が手拍子打ってるじゃありませんか。当時はあたしもまだ青かったのか、それが何だか妙に「日本的」でちょっと恥ずかしい、などと思っちゃって。

2018年3月14日水曜日

バックビートがロック?(13)

多少心を入れ換えるような覚悟の下に、ロック(ンロール)関連の話からも脱し、本来の主題であった(?)、ビートとかノリとかについての拙論に立ち返ろうと存じます。

                  

50年代的な古典ロック、日本では当初から「ロックンロール」という、「ロック」とは別種の音楽として括られていたものを聴くと、なるほど、バックビート云々の名に恥じず(?)、スウィングだのモダンだのという時代のジャズにも通ずる、offbeat=弱(偶数)拍に強勢(accent)の置かれたノリが感ぜられは致します。それでも、ジャズのスウィング感に比べれば、基本的なドラムの使い方の違いによるものか、あるいは拍どうしの時間的対比の粗密によるものか、相対的にonbeat=強(奇数)拍にもかなりの強勢が付されている……ような雰囲気ではありますけれど、60年代以降の「ンロール」が付かない「ロック」(それが以前は日本特有の区分であったことは既述の如し)ともなると、それはもう「かなり」を通り越して、とにかく1拍目からドンと行かなきゃ、とてもハードだのヘビーだのにはならない……てな寝言を並べてたんでした。

2018年3月11日日曜日

バックビートがロック?(12)

早速ロックとロックンロールについての無駄話を再開。

Wishbone Ashと同じく、ツインリードで成功した「ハードロック」バンドのThin Lizzyが、まだトリオの時代に発表した ‘The Rocker’ って曲にも、 ‘I'm a rocker, I'm a roller too ...’ てな歌詞が出てくんですけど、やはりおよそお馴染みのロックンロール調とは隔絶した事例。もちろんドラムもギターも、何よりフィル・リノットのベース、ボーカルも、呑気にバックビートだけ強調してるなんてこたありません。それじゃとてもハードになんざ聴こえませぬて。

おっと、このPhillip Lynott氏、日本でも初めは「リノット」って言ってたのに(ローマ字読みってことでしょう)、いつの間にか「ライノット」という誤読が定着しちゃって、またもウンザリ。アメリカじゃあこのアイルランド語の名字、「ライ……」ってほうが普通らしいんですが、イギリスや、何より地元のアイルランドでは圧倒的に「リ……」なんですよね(たぶん)。本人が「ライ……」と名乗ってた、って話もウェブでは広まってますが、それ、明らかに渾名をもじった洒落のようなもんですから。

2018年3月10日土曜日

バックビートがロック?(11)

前回はツェッペリンの ‘Whole Lotta Love’ を引合いに、「俺にとってのロックは、バックビートじゃなくて、4拍全部が強調された音楽」ってな寝言を並べ、それに対して古いロック、日本ではいちいち「ロックンロール」って言わなきゃならないやつ(近年は英語でも‘and roll’を付せば特に50年代風のものを指すようになってはいるわけですが)には、弱拍=オフビート、つまりは偶数拍で体を揺らしたくなる雰囲気が残ってはいるものの、60年代後半辺りからはそうも行かず……てな話をしてるうちに、 ‘rock’ と ‘roll’ の間の ‘n’ の前後に付される引用符またはアポストロフィが今どきはどうのこうのという、まったく以て場違いな話柄に溺れてしまったのでした。何とかそこからは生還を果したという次第にて。

                  

さてと、「ロックとロール」ってのが景気づけ、語呂合せのトートロジーの如きもんだってことは既述の如し。「ハードロック」バンドてえことんなってる件のツェッペリンだって(これもまた、英語なんだから、「ゼパリン」とか「ゼプリン」とまでは言わねえまでも、せめて「ゼッペリン」ぐらいにしといて貰いたかった)、 ‘Rock and Roll’ って曲やってるじゃありませんか。別に古臭いロック音楽を賛美した歌ってわけではなく、単に「昔に比べて今の俺は……」みたような歌詞。その最初のぼやきが「もうずっとロックやってねえや」って感じで、それが題名になってるってだけのことなんでした。

2018年3月9日金曜日

バックビートがロック?(10)

さてその ‘Whole Lotta Love’ のギターリフ。後から「エイトビート」のドラムが交ざってくるけど、リフ自体は16分の刻み、ってな話をしてたんでした。で、前小節の3拍目裏、例のアフタービートってやつから始まるその「先乗り」部分が、しょっぱなの第2音からいきなりシンコペーション……ってなこと言ってたら、ついそれが前回までのシンコペーション談義に流されちまったてえ仕儀。

ともあれ、この話で肝心なのは、むしろその3拍目裏から始まる、フライングにも類する「先乗り」の部分ではなく、それに続く16分の並びが1小節半あまり(歌に入ると2拍半)続くリフの「本体」のほう。「先乗り」だの「本体」だのってのも随分といいかげんな言いようだとは承知致しておりますが、だってどう言やあいいんだかわかんねえんだもん。すみません。

とにかくその16分のギター、冒頭はまったくのソロで、ほどなくベースがやはり同じ符割で加わるも、トラムは当分沈黙状態。で、そのギター(とベース)だけを聴く限り、これが2拍4拍だけを強調した、いわゆるバックビートのノリだなんてこたあ金輪際あり得ないのは灼然炳乎……って言ってんのは俺だけかも知れねえけど、だってどう足掻いたってそうとしか聴こえねえんだからしょうがない。

2018年3月8日木曜日

バックビートがロック?(9)

歴史的な言語音の短縮現象を指す ‘syncopation/syncope’ についての続きです。前回挙げた例のほかにも、かつては三重母音または二重母音+単母音として(分析法の違いに過ぎません)発音されていた /aɪə/ とか /aʊə/ とかが、真ん中の音を省いて前後を繋げちゃうのが今は普通になってる、っていうのがあります。特に英国音に顕著な現象で、たとえば ‘tyre’ も ‘tower’ も口頭では何ら区別がない、っていう、ちょっと恐ろしいような現実がそれだったりして。

日本では「アワー」などと書かれる‘hour’も同様なんですが、本来はそれと同音の ‘our’ に至ってはさらに容赦なく短縮され、[アー]のように言う人は実に多く、歌ではむしろそのほうが普通かも(中学の頃、ビートルズの ‘Yellow Submarine’ とか ‘Two of Us’ とかの ‘our’ の発音にまごついた思い出が)。つまり ‘are’ や ‘R’ とおんなじってことで、ほんとなら[ア+ゥ+ァ]という3段階だった筈のものを、[ア+ァ]という2段階(実は1音節の二重母音)に詰めただけでは飽き足らず、「アー」っていう単母音にまで縮めちゃってるってわけです。相変らずカタカナじゃあ随分間抜けになっちゃうけど、そこはどうぞ悪しからず。

いずれにしろ、実際にそうなっちゃってんのは、それで誰もまごつきゃしないからってことなんですね。文脈から自ずとどっちかは知れるわけだし、あるいはこれ、国語における漢字の存在と同様、識字率の向上によって、誰もが無意識に綴りの違いを思い浮かべるから、ってことなのかも。

バックビートがロック?(8)

シンコペーションについての能書きの続きです。早速原語である ‘syncopation’ および ‘syncope’(シンコピ)にまつわる無用の「知見」を並べると致しましょう。

音楽用語としての前者には「切分音」だの「切分法」などというしゃらくせえ字音語訳もありますけれど、その多分に不用意な言いように比べれば、あたしも日頃のカタカナ語嫌いに似合わず、「シンコペーション」って言っときゃいいじゃねえか、とは思量致すものでございます。一貫性の欠如ってやつ? だって、カメラを写真機って言うのとは違って、意味がわかんねえじゃねえかよ、どうせ……って感じ。

ともあれその原義、まず言語関係では、語中の音(節)や文字が省かれるという短縮現象を指し、たとえば詩作における、拍数を揃えるための、あるいは発話風の語調を醸し出すための技法のことだったり致します。おっと、その場合は ‘syncope’ としか言わないのか。とにかくそれ、詩文ではチョーサーだのシェイクスピアの作にもよく見られる小技で、最盛期は17世紀から18世紀にかけてとのこと。

バックビートがロック?(7)

さて、では早速ちょいとその臨床的な(?)話を。

ジャズと同様、どんな音楽をロックと呼ぶかは人それぞれではございましょうが、とりあえずはまったく恣意的に、既に50年ほども前とは言え、自分にとってはロック音楽の典型の如き(?)Led Zeppelin 初期のヒット曲、 ‘Whole Lotta Love’ ってのを例に、またぞろ勝手な屁理屈を捏ねてみようかと。

うちじゃあ誰一人ロック、それもマスコミ(日本の)が言うところのハードロックなんざ聴かないんですが、あたしゃ当時十歳でもこの曲知ってました。ラジオを聴く習慣もなかったし、どうしてあのリフを憶えちゃったのかは不明(てえか、いつの間にか憶えてたのはそれだけだったかも)。グループ名も曲名も知らぬまま……ったって、どうせ「胸いっぱいの愛を」でしたけどね。ちょいとトホホな昭和ぶり?

バックビートがロック?(6)

70年代以降はさておき、モダンまでのジャズドラムって、大半はキックもスネアも添え物のような存在で、ハイハットあるいはライドシンバルこそが言わば主役であり、それだって、聴いてりゃ自然に感じられるノリとは裏腹に、「強勢」の筈の「弱拍」(偶数拍)が「弱勢」の筈の「強拍」(奇数拍)より音がデカいってことはなく、「強弱」の感覚はやっぱり実際の音の鳴りようとは関係ねえ、ってことにはなるんじゃないかと。

ざっとYouTubeで聴いてみたんですが、ジーン・クルーパ、バディ・リッチ、アート・ブレイキー、いずれもそんな感じ。加えてサッチモ、ベニー・グッドマン、グレン・ミラーに、チャーリー・パーカーだのマイルスだのコルトレーンだの、それにデューク・エリントンなんかを聴いても、要するに自分にとっての典型的なジャズってのはみんなそういう「強勢弱拍」こそが眼目、ってことなんですが、上述のとおり「強勢」ったって決してそこの音がデカいってわけじゃなく。
 

バックビートがロック?(5)

またしても無駄に長いだけになっておりますこの拙文、主旨(なんてもんがあるかどうかはさておき)は、「エイトビートその他の和製語に対応する原語であろう英語句 は、 ‘quaver (or 8th-note) groove’ その他である」ってところから図らずも敷衍(?)するが如く、その ‘groove’ とか ‘feel’ とかに相当するであろう「ノリ」って観念あるいは感覚を履き違えたともがらが(いいねえ、エラそうで)、それだけでは飽き足らず、どのみち安直な訳語に過ぎない「強拍」と「強勢」、「弱拍」と「弱勢」をも混同した挙句(原語では「強」とも「弱」とも言っちゃおりません)、「偶数拍が強拍になるのがロックだ」などと威張ってやがる、っていう、例によって勝手に高みに立った罵詈雑言……って、自分で言ってりゃ世話ぁねえけど、まあそんなところではあります。

「ロックでは(いや、ポップ全般がそうだろう、っていちいち言うのもダルい)2拍目、4拍目に手拍子を打つもんだ」ったって、そりゃ別に拍子のありようがひっくり返ってるわけじゃなくて、強勢が弱拍に置かれる、ってだけの話。……ったって、これじゃ何度言ってもよくわかりませんけど、単純に、その曲を聴いたとき、自分がどういうふうに「ノッてる」かってのをちったあ考えてみりゃよかろうに、って感じ……ったって、依然わけわかんねえか。すみません。

2018年3月7日水曜日

バックビートがロック?(4)

さてと、いささかこき下ろしあぐねている「強弱」という表現、そもそも音に関しては徹頭徹尾比喩に過ぎぬわけで、大小だの軽重だのと言ってもそれは同じこと。言語についてもそうですが、音楽ではなおのこと、これを音自体の強さ弱さだと思い込んじゃあなるめえ……と思う間もなく、既述のとおり、まず「拍」と「勢」がごっちゃになり果てている使用例が跡を絶たぬという体たらく。

「強勢」ってのは ‘accent’ とか ‘stress’、あるいは ‘attack’ という語に対応する訳語で、これらはすべて言語音についても頻繁に用いられます。「弱勢」はその対義語、と言うより否定形で、要するに「非強勢」というだけの意味。音楽では、多少なりとも強さなり大きさなり長さなりの微妙な加減で為される(こともある)微妙な(?)「強調」が、つまりは「強勢」というやつの正体で、それはいずれの拍にも施され得る(施されたと想定し得る)もの……って、どう言ってもスッキリとは致しませんが、まあ、あたしゃとりあえずそういうもんだと思ってますんで。

バックビートがロック?(3)

「エイトビート」その他の和製語に対する言いがかりを少しでも正当化せんがために為しておりますこのリズム用語談義(?)、「ノリ」は ‘beat’ ってより ‘groove’ その他のほうが適当、ってところまでは既に(複数回)申し上げておりますものの、話を進める前に、いっそのこと自分にとっての「リズム用語の再定義」ってのをもうちょっと念入りにやっとこうかと思っちゃいまして(そんな話をしてたんだ……って、自分で言いそうになってたりして)。

                  

まず、既にちょこっと触れてますが、英語では「拍子」のことを ‘metre’(米国だけは ‘meter’ って書くやつ)、あるいはまさに ‘time’ ってんですよね。「小節」は英米で言い方が異なり、前者では ‘bar’、後者では ‘measure’ てえ次第。米で ‘bar’ と呼ばれるのは、どうも専らその小節を区切る縦線のことのようで、英ではそれ、 ‘barline’(とか ‘bar line’ とか ‘bar-line’ とか)ってんです。

バックビートがロック?(2)

ええと、和製語のエイトビートだのフォービートだのツービートだのが英語としては意味をなさない、ってことを改めて言っときたくて、その「ビート」が何者かを(自分自身に対して)明確化せんがため、まずはその根柢となるであろう「リズム」ってものの正体をはっきりさせとこうと思って書き散らしたのが、まあ前回の駄文ではございました。

やはり既述ではございますが、「ビート」が英語の ‘beat’ に対応するものであるのは言を俟たざるところでありながら、恐らくはあらゆる外来語、カタカナ語の通弊で、これもまた語義、用例がかなり曖昧なんですよね。少なくとも「ビート」= ‘beat’ とは参らぬということで。

‘beat’、 つまりは「叩く(こと)」「打つ(こと)」って意味の動詞兼名詞は、これもあらゆる外来語と同じく、日本語には名詞としてしか取り込みようがなく、「拍」とも訳されるものの(音楽ではなく、詩の「格」なんかについちゃあんまり「ビート」たあ言わねえようだけど)、結局これ、ぜんたい何なのかと言えば、前回述べたように、音楽の根幹を成す「時間を区切って並べたもの」である(?)リズムの構成単位(?)……ってところなんじゃじゃないかと。

バックビートがロック?(1)

以下は、つい2ヶ月ばかり前の昨2017年12月末から2週間ほどにわたってSNSに書き散らした、ロックまたはロックンロール音楽についての駄文なんですが、関連する音源のリンクなども(勝手に)施しつつ、ここに再録したくなりました。

もともとは、そのまた1年あまり前の2016年秋から書き始めるも、趣旨の逸脱から回帰できぬまま、昨2107年春、つまり今から約1年前に一旦放棄し、漸く同年の終盤に至って投稿を再開した、東京語の発音やアクセントについてのとんでもない駄長文が発端。その主旨とも言える「歌メロと歌詞の高低アクセント問題」から派生的に思いついた事柄を、後から一応まとめてみた、といったところです。

歌メロとアクセントの関係という話の流れから何となく言及した、「エイトビート」という和製語の「いかがわしさ」がきっかけだったと思うんですが、まずはその愚長文の当該部分から示しとこうと思います。

2018年3月5日月曜日

ザじゃないのよ the は ―― 続き

与太話の続き、予告していた蛇足を記します。

母音の前でも/ðə/と発音される‘the’(飽くまで「ザ」には非ず)に伴う音韻現象、すなわち、母音で終る音節と母音で始まる次の音節とを明確に分つため、(無意識に?)為される声門閉鎖(glottal stop)による発音法のことを、音声学では ‘hard attack’ と称するのですが、もちろん「猛攻」なんてわけじゃない。 ‘attack’ の訳語は「起声」とのことで、「硬起声」たる ‘hard attack’ の対義語は当然‘soft attack’なんですけど、そっちはどうも、専ら歌唱における母音の発音法の区分に用いられる語らしい。「軟起声」という訳に対し、原語の ‘soft attack’ のほうにはそこはかとない撞着が感ぜられなくもなかったりして。

ともあれ、発話時における英語音の ‘hard attack’、実は ‘the’ の後に限らず、不定冠詞と呼ばれる‘a’についても生起する事象でして、それもまた、母音の前では‘an’たるべしという「規則」が(無自覚に? 敢えて?)閑却され、‘n’を発音しない場合もある、ということなのでした。‘the’とは異なり、何せ表記自体が変っちゃいますから、実際の発音を無理やり描写するのでもない限り、文章で用いられることはないものの、 ‘an apple’ の代りに ‘a apple’ (/əʔæpl/)と発音されることもなくはない、ということなんです。その条件として、またしてもこの ‘hard attack’ が必須とはなるてえ次第。

「ザ」じゃないのよ‘the’は

英語に関してまたひとつ所感を記します。

自分自身が「何だかよくわかんねえや」ってことを何とかわかろうとしてこの歳まで足掻いてきた結果、多少わかるようになってはきたんですが、塾講師とか英文和訳tとかの仕事を通して痛感するのは、「あんたら、どうしてそんなにわかってないのに、自信たっぷりにトンチンカンな英語もどきで書いたりしゃべったりできんのよ」ってこと。もちろん「自信はないけど頑張ってます」って人たちはその限りに非ず。自己正当化ってやつか。

                  

さて、 ‘the’ という英語の定冠詞を、本朝にては夙に「ザ」だなどと呼び習わしておりますが、そう言ってる時点でダメなんですよね、ほんと。